F-nameのブログ

はてなダイアリーから移行し、更に独自ドメイン化しました。

中国近世の対外関係(東アジア近世近代史研究第5回)

異様に込み入っていてややこしい。2000年もの間何も変化がない等という中国史のドグマは、かなり眉唾ものといえる。

 

夫馬進。中国近世の外交。主に3つの時期。宋代、明代初め。明代末期から清朝。
中国の固有の型。秦の始皇帝からヨーロッパ列強の影響を受けるまで外交という概念が無かった。春秋戦国時代。外交に似ていた性格が。司馬遷の史記。始皇帝が統一すると、中華思想が。万里の長城。文明が行き渡っていない。周辺は朝貢すべき。現在に中国は外交部。アロー戦争の結果として欧米諸国と外交するまでは礼部。接待が主な役割。秦漢時代からは外交の観念は無かった。朝貢する勢力は品々が目当て。様々な特権を。朝貢関係は外国に利益を与えて侵略を防止。漢民族ではない民族が統治する時代であっても朝貢関係が基本。中国史の面白さ。現れ方が時代により異なる。相手国が朝貢しない場合は?関係がない?無礼であると他国を侵略。軍事力に劣る場合。外交に近いことを。gapをどう埋めるかが問題になる。
一国としての宋と外交関係。政治経済社会文化の先般に大きな変化。対外関係についても。唐が東アジアでは卓越した軍事力を。宋はあくまで一国。契丹。936年には冊封するまでに。1004年の澶淵の盟。宋は毎年多額の絹と銀を送る。逆に貢物を送ると不安が。戦ったのは81回中80回敗北。貢物を送る方がマシと。敵対関係にはないと信書を。朝鮮との間に通信使が日本に。元々は高麗と宋との間に。宋代における外交と貿易の関係。現代でも外交が上手く行かないと制裁が加えられる。中国は2000年間の朝貢という方法が諸外国を手懐ける。宋代の外交の特色は外交と貿易を極力分けて考える。元も同じ。日本との外交と貿易。宋では官庁をおいて監視をして関税を取る。莫大な利益を。宋という国家は貿易に積極的。日本との間に外交は無かったが、人の行き来は自由だった。パスポートは持たないで出かけた日本の僧。入国に問題は無かった。開封に赴く。日本の産物を貢物に。全てが僧。朝貢?密出国。どうも朝貢と書いていた模様。僧侶13名が謁見。今再び日本から入港と報告。わざわざ日本国家が派遣したものではないと注意。あくまで理念的な。宋が東アジアの一国でしかないと冷静に受け止めている。編纂した人物を含め合理的な思考を。
明代の対外政策。宋代と対極的。洪武帝。貿易を外交に完全に従属させる。朝貢する相手とは国交を維持。朝貢しないと貿易もしない。洪武帝の時代では朝貢目的以外は禁止。江戸幕府の鎖国。更に徹底的。江戸幕府の場合は長崎には国交のない中国から。絹などが輸入され銀や銅が大量に輸出。貿易はあった。洪武帝の外交。モンゴル族とは戦争をするが、その他の民族には戦争をしない。洪武帝は我が民と呼んだ。外国人、野蛮人は含まれない。統治する領土に住んでいる人々に限られる。中国の皇帝は統治してはならないと。モンゴル族は害悪をもたらすので戦争するが、害毒がなければ出兵しない。高麗、日本、ベトナムに大軍を送った元とは違う。洪武帝は15国とは戦争をしなかった。倭寇に頭を悩ませていたし、日本との外交関係も難航したが、出兵してはいけない野蛮国とみなしていた。対外政策も極めて独創的で徹底的。朝鮮への外交関係。政権をとった頃は高麗が。悩みのタネ。元々は元と親密な関係。北に退いてからも明に対抗するように仕向ける。高麗へは武力を送るぞと迫る。しかし出兵したのは高麗。クーデタで朝鮮国が誕生。反明感情は強かった。明から遠征軍を送るぞと脅し続けるとともに、南京から高麗に派遣して神々を祀る。ベトナムにも同じく。各国の石碑にはもちろん、現地の王を守ると。洪武帝の脅し文句。洪武帝の構想では、南京に祀られた朝鮮の神々に対し、洪武帝に代わり天が罰を下すという構成。外交政策においても他にはありえなく独創的。
17世紀初めから18世紀終わり。洪武帝の鎖国政策が断固として守り続けられ、モンゴル族が侵入し海賊が荒らし回る。国際貿易は抑えきれないものだった。貿易は完全に外国に従属するものとし遵守された。永楽帝は?対外的に積極的では?そう見えるだけ。2つの原則は完全に守っていた。鄭和の大遠征。しかし遠征隊を海外に送り征服するのが目的でなかった。戦闘はなかった。外国物品をもたらすために朝貢を。遠征隊自体が貿易を。フビライが大軍を送ったのと違う。永楽帝が死去すると遠征は中断。朝貢に来る国とだけ貿易をするという方針は16世紀には守ることが不可能に。貿易量は中国でも周辺国でも朝貢だけでは賄えない。軍事費が膨れ上がる。原因は貿易の限定という外交原則があったから。民間人の貿易を禁止することは不可能とされ、海禁政策は放棄される。表面的には日本との貿易は禁止されていたが、密貿易は黙認された。ヨーロッパのポルトガル人は貿易を。国際関係は一変。琉球を焦点に。琉球は一貫して明に忠実。薩摩が整復しようと企む。制圧したのは1609年。薩摩は琉球に対し朝貢貿易を続けさせ利益を得ようとした。倭による。しかし明は出兵もせず見殺しにする。中国側も知らぬこととして朝貢を受け入れる。偽りの朝貢。日本と再び戦争するのを避ける。琉球が明に朝貢して外交が続く。朝鮮と琉球との朝貢使節は北京で歓談を。友好関係に。漂着したときには互いに国交が合ったので互いに送還していた。清代への変化、歓談はなくなる。祝賀式で一緒だが余所余所しく振る舞い歓談しない。冊封国であり戦果も交えていないが。1717年にソウルの宮廷での議論から。数百年に対し国交がなかった。使節が相手国の使節と歓談できないのは当然。朝鮮と琉球には国交がなかったことを私は知らなかった。同じく冊封を受けていても。可能にした前提は中国と日本に長らく国交がなかったこと。朝貢という理念は簡単に崩壊する。朝鮮は琉球との国交を再開することで秩序を崩壊することを避けたかった。
冊封を重視したのは1つの手段に過ぎない。清は広大であっても圧倒的な地位を持てていない。

 

東アジア近世近代史研究 (放送大学大学院教材)

東アジア近世近代史研究 (放送大学大学院教材)