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「鎖国」と都市長崎(日本の近世第12回)

今更だが中学社会科レベルの日本歴史の知識しか無いのは迂闊としか他に言いようがない。

 

木村直樹。「鎖国」と都市長崎。近世の大都市の長崎。都市と政治外交の関係。近世都市の本質。島原の乱を題材に。
近世の貿易都市長崎。特権的な政治的都市。都市の内部構造と外交。外交に対する長崎の人の関心。唄。長崎ぶらぶら節。芸者さんのレコード。現在の長崎でも同じメロディーで流れる。19世紀初頭に出来た?時代時代ごとに起こった出来事を歌う。1854年のロシア人の到来。ロシアの船を見ようと砲台に見物する様子。長崎に暮らす人にとり外国船はイベント。江戸幕府の貿易政策が直接影響がある。
近世の対外関係と長崎。鎖国という言葉。小学校以来習うが、新聞などの表現にも。どちらかと言えば否定的。用いられるようになった時代と実態。
近世の長崎の特質を人口から。範囲は現在より遥かに小さい。長崎駅から主要な範囲は1キロ。多くの住民が済む。16世紀には1500人。10倍に達する。1700年には5万人以上に。その後急速に減少。長崎の人口と日本の人口の比較。17世紀の間に2倍以上。3000万人から徐々に増加。顕著な違いが。長崎における貿易と関係がある。異国人との関係。貿易抑制の政策。1715年に正徳新税。貿易が盛んのときには5万人。下火になると3万人。9割以上は町人だが都市の姿が大きく変わる。政治の側から長崎の特徴を。
鎖国という言葉の由来。歴史学では前近代の時代。対外関係。江戸時代の対外関係の特徴は鎖国と理解される。長崎は例外的に西洋に開かれた都市。鎖国の由来。1690年に到来したケンペルが帰国後の「日本史」が原典。日本研究のバイブルとして読まれる。タイトルの論文。国に鎖して世界諸国との関係を断つ。鎖国の大本。1801年になり翻訳され日本社会に紹介。あまりに長いので省略して「鎖国論」と。江戸時代が始まってから200年経過して。江戸時代の3分の2は誰も知らず。徳川家光の時代には鎖国そのものを耳にしたことはない。ケンペルにしても当然の理由としていて、対外関係は限定されていて奇妙だが日本社会の安定をもたらす合理的なものと合理的に。日本独自のものか東アジアに共通のものか。歴史学では議論に。ケンペルは否定的にとらえていない。同じ時代に長崎に暮らす人の認識は?西川如見。長崎の都市の特徴を説明。山里。家は4000あまり。唐様。食糧を供給する3つの村。貿易により1万あまりの竈が。5万を養える。珍しい文物に溢れ海外の物も。京都を羨む必要はない。繁栄する都市長崎。否定的ではない。18世紀初頭に外交体制に対し否定的な視点は殆どない。鎖国という言葉は19世紀初頭に翻訳語として。すぐに知られるようになったわけではなく書き写しで。幕末でも多くは知らない。むしろ明治時代に多くの人が知る。遅れをとった日本という意識を反映。明治時代に何故日本は遅れたか、原因は閉ざされていたからに違いないと。実態はどうか。都市長崎を法の普及と国際紛争の処理という観点から。
鎖国令。現在中学校や高等学校の教科書では5回にわたり鎖国令が。ポルトガル船が追放されキリスト教の禁止が厳しく。1639年の第5次令で鎖国は完成。どのような形式で誰から誰に?現在法令は国会で可決され天皇の御璽御名が、官報による公示。近世社会。法令が重なり合って存在。幕府の法律だけが覆う法ではないし調べれば分かるわけではない。キリスト教禁制。盗みや殺人は地域の支配者ごとに異なる。天領と島津藩とは異なるのが当たり前。軽犯罪は村々で処罰されたりも。適用される対象は様々。最初は第1次。1633年。長崎奉行に当てて年寄り5名が出す。連署。17か条からなる。将軍の意思を伝達する手紙の形式。宛先となる長崎奉行の2名に守るよう伝達。内容は海外へ出る船舶は限定する。海外に居住している日本人の帰国を禁止。オランダ船などに糸割賦システムを。長崎以外の寄港に制限を。第2次令。長崎に適用する法17条。大きな変更はない。第3次令。長崎奉行に下知状。17条。新たに日本人の海外渡航が禁止。唐船が長崎に集まるようになったのを反映。第4次令。19か条。日本人とポルトガル人に産まれた子どもを日本から追放。最後に第5次令。かなり形式が異なる。4通。幕府の首脳部が列挙。諸国の大名に2通目が。大名については警備体制の強化を。唐船やオランダ船に。キリスト教厳禁を。鎖国令を見てきた。第1次から第4次は長崎に毎年派遣される長崎奉行に職務命令として。下知状という将軍の意思を取り次ぐ形式。外国と関係しているキリスト教の禁令は無い。どのように4次までは伝えられた?薩摩藩主に個別に面談して伝える。唐船に対し貿易を断念させる言質を取っている。初夏から秋にかけてで、シーズンが終わると江戸に帰る。任務や基本方針を。通常の法令ではなく業務命令なので文言が同じでも問題はない。1633年の第1次の発令の背景。2名の旗本が任命。確認する必要性が。前年に秀忠の死去。新たに方針の構築を。毎年派遣されるので連続して発給。その後は別の形式で。家光が重病で発令されず。長崎奉行が九州に戻り戦目付として派遣。第4次までは法令に相当するものを含むが業務命令的で万人に知らされていない。禁令や貿易については個別に大名に伝えられる。当時としては限定的。実態としての鎖国政策を全体的に理解しているのは少数。鎖国に向かい着々と?あるべき姿として鎖国があるのではなく経過的。当事者の意図は必ずしも一致しない。今の歴史と。
幕府の命令。1673年正月。薩摩藩に。老中奉書。御札。琉球より船。海賊に合う。白銀300貫目。中山王。一昨年前清王朝に派遣された琉球の船が。薩摩藩主から派遣。台湾は鄭成功の一族による支配。海賊行為は鄭氏側。罰金として船から取り上げ琉球国王に還付。この事件は琉球船が海賊の被害に。鄭氏の船が長崎に着いて調査。台湾で20年以降対峙。琉球は清側に服属。介入の名目。オランダ商館長への幕府の。暇乞いに江戸城に。3か条の達し書きを聞かされる。新たに付け加えが。琉球戦への海賊行為は全面的に禁止する。琉球は両属状態。保護権をオランダに宣言。中国大陸で清が。抵抗が続く。やがて大陸から追い出される。1661年に台湾を攻撃してオランダを追放。10年近くオランダと鄭氏は戦争状態に。互いに船舶が攻撃する。オランダ東インド会社などが長崎に寄港し貿易をする。日本の近海でも紛争が頻発。オランダの船もジャカルタから出発して琉球沖を通過。江戸幕府は貿易を外国船に依存。基本的には日本に来航する船の攻撃を禁じる。これ以外にも1662年にはオランダ東インド会社が賠償を払う。17世紀の後半は明清交替などで紛争の多発。日本は紛争に巻き込まれる。敵味方が同時に来航。長崎の安定を図る必要があり、罰金という手法を取って安定を図る。海賊行為の処罰は出来ず罰金の手法で。長崎奉行の調停機能を期待。
長崎は東アジア情勢の鏡。政治外交の状態を、異国船同士の紛争について。海外のトラブルがしばしば持ち込まれる。江戸時代に大都市だった長崎は国際情勢に影響される都市だった。

 

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