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レジリエンスと経済競争力:日本のレジリエンスの弱さ、共有資本の影響、東日本大震災とコロナ禍への対応(経済政策第1回その3)♯放送大学講義録

レジリエンスを定量的に測れないだろうかと感じる。

 

-----放送大学講義録-----

 

次に、レジリエンスと経済競争力の関係に関する質問があります。テキストの16ページによると、世界経済フォーラムの分類では日本は競争力はあるがレジリエンスが弱い、実際にロシアに次いで低いとあります。私が疑問に思っているのは、なぜ日本の社会や日本の人々はこのような状態を許してしまっているのか、ということです。先生が言うように、レジリエンスがなく危機にさらされたままでは人々は不安に満ちると思いますが、それをなぜ受け入れてきたのでしょうか。先生の分析をお聞かせください。

はい、レジリエンスというのはもともと経済学の言葉ではなく、生態系がショックを受けた後にどれだけ早く回復するかという概念です。たとえば、東日本大震災で海洋が津波で大きく影響を受けた際も、意外と早く良好な状態に戻りました。これは、耐久性があり、しなやかで強い状態です。

同様に、心理学では大きな外部の衝撃を受けて心が元通りに回復できない、深い傷を負うことがあります。レジリエンスが小さい状態とは、しなやかな強さがなく、容易に折れてしまう状態を意味します。不確実性が高くてもレジリエンスが大きければ、しなやかに回復できますが、不確実性が高いにもかかわらずレジリエンスが低い場合、人々は不安にさらされるでしょう。

私は、社会とは元々共有している資本があるべきだと考えています。身近な例としては家族やコミュニティです。これらがあるからこそ、企業社会の中でも、共働きが成り立ちます。ただ、日本では近代以降、村という人間関係資本が明治政府によって解体され、所有権が国または個人に限られるようになりました。地方自治も国家官僚が代理で行う形になり、村のような中間段階がなくなりました。

例えば、林林の下草や枯れ木など、共有していたエネルギー源が不要とみなされ、共有資本としてのエネルギー源が失われました。現在では漁業が対象とする魚も、日本では共有できていないようで、漁獲量が減少しています。戦後の日本は自然資源の扱いや企業が乱獲を進める問題もありました。

企業共同体が人間関係を吸収し、自然環境や文化環境に影響を与えてきました。しかし、21世紀に入り、特に非正規雇用が増えることで、共同体の足場が失われてきたと感じています。これがレジリエンスが低い状態の実態ではないかと考えます。

井上先生、共有資本や人間関係資本の欠如が問題だというのは、私も日々感じています。特にコロナ禍で同僚との共有時間が減り、意見交換ができなくなっています。日本社会でレジリエンスがますます低くなっていると思います。もちろん、コロナはグローバルな問題ですが、元々レジリエンスが低い日本ではさらに低下しているのではないかと懸念しています。