F-nameのブログ

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ヒロイズム。

ヒーローが出てくるフィクション作品は極めて多数ある。主人公が活躍し、大概は悪の存在を倒してストーリーは終わる。どの時代やどの地域でも共通した物語の構造なのだろう。そして読み手はヒーローと自分を重ね合わせる。ヒロイズムの高揚感。麻薬の要素があり、日常で疲れた人間に癒しを与える。だが、勧善懲悪のストーリーは、現実社会には皆無と言って良い。歴史的にも存在しないし、これからも無いだろう。物語を読んでスッキリするのは自由だが、現世界に適用することが出来ないことは心の片隅に留めておくべき。

脳梗塞。

我が家族は、どうも脳梗塞の家系らしい。数年前に父がなった。幸い周囲の方々が早々に119番通報してもらえ、間近の大学病院に搬入された。対処が早いと致命傷にはならないようで、今は元気である。ただリハビリは数ヶ月かかったけれど。かなりの幸運が重なったと思う。そして昨年は姉である。手指が麻痺してきたので、自分で119番通報して、1週間の入院で済んだ。血栓を溶かす薬を入れれば、さほどのことにはならないそうだ。私も気をつけるように言われている。生活習慣病になるなら、恐らく脳梗塞がヤバイだろう。節制に努めるとともに、手指に麻痺がでたら素早い対処が必要。まあ入院はあまりしたくはないけれど。

東は東、西は西(政治学へのいざない第1回)

時代の主要な思想潮流に流されて、言葉は解釈されがちだなあと感じる。

 

時間の認識を前提として。年号の確認はマチマチ。西洋暦の方が多い?グローバルスタンダード。時間の支配は空間の支配と同じ。帝国主義の時代。キップリング。適者生存論の社会への適用。白人支配の責任。100年前の帝国主義は世界的視野を持つ。空間の支配は時間の支配に。植民地支配拡大に不可欠。その当時の日本は?失敗すれば首の骨を折れかねない。新興の帝国主義国。西洋化を積極的に受け入れる。西洋暦も受け入れざるを得ない。元号。これまでは一人の天皇でも頻繁に改元していた。明治時代からは一世一元。明治大正昭和平成。元号の世界としての日本人の認識。双方を使う。昭和という元号を使うか、20世紀の西洋暦を使うか?戦争責任の絡みで昭和を使わない人達も居た。他方は官公庁は昭和を使った。19世紀の末から生き続けているもの。キップリング。ジャングル・ブック。美智子皇后。懐かしい作品の一つ。100年経ってなお児童文学として読みつがれている。19世紀末の作品はいつ日本語に訳されたか?1894年に原著。4年後に訳される。博文館の少年世界という雑誌に連載。ほぼ同時と言って良い。100年言い伝えられている、「東は東、西は西」。非常に誤読をされるケースが多い。力足らずではなく、かなり意図的に誤解をされている。馬場恒吾。中公文庫に評伝が。キップリングを極めて高く評価。簡潔で一語一語が、言葉の魔法使い。30年代後半にキップリング論を。30年代には帝国主義者として把握されていたが、異議申立てをする。何故帝国主義者と決めつけられたかを説こうとする。キップリングの詩は、東西文明は融和することはない、という意味で。2人の強い男が立つ時は、東も無ければ西も無い。両雄の相対するということ。今日でも同じように誤解されている。所詮理解は遠い?ロベルギラン。94年に日本の勲章を。西洋化された日本が、伝統的な日本を崩壊させることはない。日本人が発明したのは二重文明人?この種の誤読は正しい読み方?西の側でも誤読が始まり、東でも受け継がれる。ダゴール。2つは出会うことがない?両者は相容れない?20世紀初頭からのコンテキスト。20世紀の末以降、キップリングの再興。誤読だったと西でも東でも言い始める。キップリングの意図そのものに。馬場恒吾は日本語も英語も、同じような悩みを。20年代30年代と帝国主義者として断罪。日本の英文学界に取り入れられる。帝国主義を喧伝。スタンダードの呪縛。ナチや極右に近い人物として。日本で紹介されることが少なくなる。紹介の為の翻訳は少なかった。拍手喝采とはいかない。中国への利害対立。戦後も呪縛が続く。研究してはいけないという学界の雰囲気。勇気ある学者が出ない。80年代以降から、キップリングの読み直すが。ザイードのオリエンタリズムの逆機能。よく読めば文学として面白い。アメリカやイギリス、伝記が。日本では学会も。帝国主義者は読んではいけない?戦後の思想の流れの呪縛。戦後主張の反映。キップリングの評価にあたって出てくるのがジョージ・オーウェル。キップリングが如何に帝国主義者か。しかし単線的ではない。退役兵士が読み込む。00年前後にボーア戦争についての詩。リアル。19世紀の帝国主義者の見方と別。ファシズム以前。キップリング批判だけが日本では論じられる。限定条件をつけながら再評価をしたのは比較文化の学会。徳富蘇峰。健全なナショナリズム?大和民族に重荷の自覚を。後に大東亜戦争への賛美をしたが。黄人の重荷。インタラクション。極めて慎重に限定条件をつけているが。70年代に。キップリングをどう読み直す?01年の少年キム。19世紀後期。大英帝国の黄金世紀。ロシアとイギリスにトラブルが。グレート・ゲーム。ヒーローのキム。スパイ小説だが仏教の話。ザイードのオリエンタリズム。「文化と帝国主義」。文学的価値を。階級差別の意識はあるが。植民地を題材にしたからと言って、帝国主義とは言えない。実践倫理の書としても読める。民族や宗教を融合。帝国主義の観点だけからしか読めない訳ではない。日本の近代を考える上で大事な議論。帝国主義に日本は流された?戦後70年、帝国主義を全て否定してきたけれど。平和や民主主義に反するものは全て悪だった?戦前の悪の根拠の一つは帝国主義。社会進化論。「劣等な民族」を支配するのは当然。とんでもないと一刀両断した。しかし一つ一つ吟味することが必要。言葉の多義性を。日露戦争の後、夏目漱石も帝国主義を礼賛したかのような文章を書いている。そういう雰囲気があったのは事実。誤った文脈で読まれているのを放置しているのは問題ではないのか。平たい文脈で考え直す必要性がある。戦後を賛美しようとする動きもある。帝国主義は当然?戦前イコール善、というのも違う。90年代に産まれた世代。直感で言うと侵略国ではない?どちらもが間違っている。一つ一つ吟味していくこと。東西文明は両雄相対する。イスラムと西洋、イスラムと東洋が問題となっている時代。中東の世界をどのように読み込んでいくか。常に新しい文脈の中で。細かい吟味の上に議論を展開していく必要がある。

 

政治学へのいざない (放送大学教材)

政治学へのいざない (放送大学教材)

 

 

異端。

出身高校に入り一番良かったと思うことは、異端であることを咎められなかったことかもしれない。文化長屋という文化系の部室に主に暮らしていたのだけれど、何をしても周囲に受け止めて貰えたのは、自分にとり大きかったと感じる。昔ながらの校風の恩恵に浴することが出来ていたのだろう。小中と居場所がないので一人で暮らすことが多かったので尚更のことである。そして予備校に通い大学進学をしたのだけれど、異端であると咎められる体験はしなかった。若い不安定な時期なので、人格形成にとり有り難いことだと今では考えている。まあ異端であるのもシンドイことだけど。

飛び込み自殺。

ここ数日、人身事故で鉄道の遅れが相次いでいる。阪急であったのかと思えば今度はJR。おまけに昨日は東京の品川である。交通網は大混乱になったと聞く。サラリーマンは電車通勤が殆どなので、人身事故に巻き込まれると大変である。幸い今の職場と自宅の距離は4キロほどなので、最悪の場合は歩けば良いのだけど。恐らく自殺しようと思って線路に飛び込んだのだろうか。巻き込まれた乗客にしてみれば、自殺するのにも他の人間の迷惑を考えろ、と感じるのだろう。残された遺族に鉄道会社から賠償請求があるかもしれないし。私もそうである。しかし、そういう計算が出来る状況ならば、そもそも自殺をしようとは考えない。手っ取り早い方法として、電車への飛び込みが選択されるのだろう。ホームドアを設置すれば解決になるかもしれないが、かなりの費用がかかり運賃に跳ね返る恐れがある。それにドア位置が電車の形式によりバラバラだと設置も難しい。セーフティネットを拡充し広報をするなどして、自殺をしようとする人間を1人でも減らすしか対策は無いように考える。

世界への愛のために(現代の危機と哲学第15回)

考え続けることが大事なのかもしれない。諦めること無く。

 

現代人の直面している危機。普段は考え付きもしない問い。生きるとは何か?
問題が重大?考えれば考える程深みに。だからこそ重大な問題を考えるのは楽しいこと。21世紀最初の年のテロ。10年後の大震災と破局。「神は死んだ」。人類は知の新局面に。ハイデガー。学問の危機への打開。終わりへの存在。大学の危機の問題。労働。哲学は如何に無力か。アレント。労働、生活、行為。現代科学。この怪物との格闘。原子爆弾の炸裂。世界の終わりを意識。この世界は続かない?人類の滅亡。キリスト教は終末論が濃厚。人類の進歩ではない。現代人のつぶやく世界の終わり。今を楽しむに若くはない?メメント・モリ。自明の真理として通用。死んだら終わり。考えても仕方がない?個々人の命を超えた何か。有限性への突破を模索。哲学も死を超えるもの。魂の不死?ラディカルな唯物論。万物を単純化。物質的世界観。デモクリトスなどの原子論は危険視された。永遠の真理への喜び。神の死は現代に固有なものとは言えない。テオリアにとどまっていたのに対し、現代科学は作ることと一体化。原子核の分裂融合。超自然現象。人類全体の関心事に。唯物論的なものが、唯一学ぶものに。文明の興亡は繰り返されてきたが、全人類が危機の時代は無かった。死んだ者勝ち。現代テクノロジー。原子爆弾製造プロジェクトから中核事業に。人類の存続という大前提に関わる。現代科学は公的なものの中心。政治的なものは科学技術なしに語れない。市民共同体的。一般市民に開かれたものでなければならない。専門家にすら理解し難くなっている。日常言語で語れるようになること。活動的生。アレント。専業科学者や専業政治家に委ねて良い筈はない。最後の最後まで辿ることが前提?新しいことへ行くのが化学の本質。自由に議論されるべき。単に市民目線であれば良いという訳ではない。真理への意志が如何に必要であるか?近代に固有な傾向ではないが。大地を離れ天空へ、科学者の夢。身を滅ぼすことは折り込み済み。モラルを吹聴して済む話ではない。無への思索。西田幾多郎以来の日本哲学も。世界の終わり。明るいニヒニズム。世界のしぶとさ。世界はなお続く。これからも果てしなく続く。驚くべき。自分たちの後は無い、と考えるのは思い上がり。20世紀の地獄絵図に比べれば、21世紀の出来事はなお可愛いもの。終わりそうでもなお続く。何事も無かったかのように。子どもたちが成長し、それが繰り返される。独我論的妄想とは関係なく。問うべきは世界の永続性。奇跡ではない。始まりの存在。世界そのものが何か違ったものになる。誰にも記録が出来ない。世界がどうなるかはわからない。世界が存続しているのは不思議。世界の住民は現に居る者だけではなく、過去に生きた者や将来の者も含まれる。時間性。世界は時間的厚みを持つ。実存現象。30年単位の親子関係。世代の概念。共通世界。経時的でもある。世界は引き継がれる。種の存続と同じではない。人間らしい生活。実存論的。命と世界の違い。世界は生死を超えて存在。死を超えるものを求める。世界そのものが死を超えるもの。世界への配慮、ケア。世界への愛。世界を愛そうと叫んでも仕方がない。自明のことを考え直す。言葉の危機、人文学の危機。日常言語でしか為されない?考えて言葉にすることを見直すこと。世界の愛の為に。

 

現代の危機と哲学 (放送大学教材)

現代の危機と哲学 (放送大学教材)

 

 

相続。

二世の国会議員が増えている。もちろん血を砕いて努力されてはる方も知っている。ただ、引退する親などの政治家としての地位を受け継ぐのに、血縁者の方が何かと都合が良い、という側面もある。長らく政治家をやっていると、後援会や関連会社など、その地位に便乗している人間や組織は多くなる。そして何かと恩恵を受けている。引退するとしても、続けて利益を享受したいと周囲は考え、子供など血縁者に地位を継がせようと考えるのだろうと思う。その方が有権者の受けも良いことだし。癒着の構造はクリアーにするべきではないのだろうか?ある意味、世襲制が既に復活しているのかもしれない。