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各論5・近世、近代日本の公共圏と公共空間(日本政治思想史第8回)

公共空間と共同体を重ね合わせて形成することは出来ないのだろうかと感じた。

 

原武史。近世近代の日本の公共圏と公共空間。ここで言う公共圏とは?公共。公共事業や人権を制約する公共の福祉。政治学の世界では肯定的に用いられるように。公共圏の起源は西洋の古代ギリシアまで遡る。ハンナ・アーレント「人間の条件」。ポリス。都市国家。公的領域。全ての成年男子が問題を討論し合う。言語的なcommunicationが交わされる。ハーバーマス。「公共性の構造転換」。17世紀から18世紀にコーヒーハウスやサロン。貴族や知識人が対等の関係で討論を。ドイツでも読書会が数多く。市民の権利を守る公共圏。市民的公共性。公共圏。万民に開かれていたものではなく、あくまでブルジョアのエリートが理性的に討論。言語的なコミュニケーションの遺産を継承。江戸時代には相当する空間がまったくなかったわけではない。前田勉。全国各地の藩で藩校での回読に注目。この読書会は武士層に限られるが。対等に議論したりする自由があった。政治的討論は禁じられていたが、水戸藩などは政治目的の会合へと発展。維新への原動力に。誰もがアクセスできる空間、公衆浴場。男女に分かれて入浴するのが原則。必ずしも守られなかった。身分や男女の差を越える。外国人が日本に。外国人も日本の銭湯で昼間から男女が風呂に入りよく喋るのに驚く。浴場でよく喋るが、内容は多くの場合近隣の噂話や寺のご利益など。エリートの理性的な討論ではなかった。しかし色んな話は民俗学の宝庫として捉えられる。南方熊楠。田辺で銭湯に。会話からネタを。西日本を中心として寄り合いが残っている。宮本常一「忘れられた日本人」。対馬で寄り合いに。近頃始まったのではなく、200年以上前ににも記録が。70を越した老人の話では子供の頃も同様。違うのは誰かが弁当を持ってきて話を。その場で寝る者や始終話す人も。難しい話も片がつく。皆が納得の行くまで話し合う。結論が出ると守らなければ。1つの事柄について関係のある話をする。話に花が咲く。村の寄り合いでは理性的討論を避ける。全員が納得するまで、角を立てない。江戸時代から。公共圏と言うより共同体。2つの違い。公共という言葉。江戸時代に儒学者が使っていた。幕末から明治にかけての横井小楠の思想。君主と臣下が上下の関係ではなく互いに討論し合うのが公共。古代中国の政治のあり方。西洋から進んで議会制度を。あらゆる場所で理を。中国で生まれた儒学に西洋思想をつなげたラディカルな。五箇条の御誓文。万機公論に決すべし、に影響を。輿論。現在では世論とするが。元々輿論と世論の意味は違う。理性的討論の結論と情緒的な共感。江戸時代で言うと読書会と公衆浴場。明治に成ると政治的討論も自由になる。勃興するのが自由民権運動。過程で各地に勉強会が私擬憲法が。東京都での五日市憲法草案。戦後の日本国憲法にも通じる。13年の誕生日に皇后が言及。宮内省のホームページに。地域の小学校の教員などが討議を重ねてかきあげた。教育を受ける義務など。地方自治についても。日本各地の少なくとも40数カ所で。政治参加への意欲や熱い願い。日本国憲法は内発的な地下水脈があったと。さらに遡ると江戸時代の読書会があったからこそ討論があった。但し江戸時代の読書会との違いも。既存の寺などで演説会がしばしば。読むから語るへ、という流れ。討論するのではなく一方的に大衆に呼びかける。講釈や講談、演芸に近い。植木枝盛が作詞した民権数え歌。人の上には人の無き。面白い歌。演説歌は演歌の起源にも。音楽の要素が入ってくる。一般大衆の関心は増大するが、理性的討論が次第に衰退することにも。明治政府は公園や図書館を。身分や男女の差を越えて使える公共空間。天皇を祭る神社も。日比谷公園では05年にポーツマス条約に反対する国民集会が開かれた。政治的暴動へ。日比谷焼き討ち事件。上野公園や靖国神社は天皇が現れると儀礼空間に。市民的公共性の空間ではなく臨御する不可視の存在を可視化する。大正初期に誕生した東京駅。最初から天皇のための駅として。アゴラ以来の広場が政治空間として計画的につくられることもなかった。皇居前広場。江戸城の西の丸下。なし崩し的に撤去した空き地に。大正後期まではともかく、昭和になってから天皇制の空間に。戦後は公共空間になったが、52年の血のメーデー事件。これ以降は再び使われなくなる。
明治以降に生まれた新たな空間、車内。サロンやコーヒーハウスがにわかに現れた代わりに、鉄道の車内では公共圏の条件を満たす空間に。文明開化の一環として72年に鉄道が新橋横浜間に。明治天皇が開業式に出席。これ以降、鉄道は東京を中心として鉄道網が。天皇に利用されるたびに儀礼空間に変わる。江戸時代には無かったような公共空間の確立にも。列車という乗り場。等級の違いがあるが身分に関係なしに乗れる。見知らぬ人が乗り合わせる。人々が向かい合って対話をするのには好都合な配置に。車内という空間で様々なコミュニケーションが。夏目漱石の「三四郎」。冒頭近くに主人公が東京帝国大学に入学するために熊本から汽車に乗り上京。建物を見ても顔相応。富士山以外に自慢出来るものはない。日露戦争以後に出会うとは思えなかった人間。滅びるね。三四郎とたまたま乗り合わせた廣田先生の発言。熊本でこんなことを口に出せば殴られ国賊にされる。そんな空気の中で成長。車内という空間では誰もが会話に参加して政治的考えを表明する。一般の市民も。水戸の出身で第一高等学校を中退して五一五事件に関与する橘孝三郎の著書。はやく日米戦争でも始まれば良い、一景気来るかも。アメリカは大きい。日本の軍隊は強いが軍資金が続かない。負けたってアメリカならそんな酷いこともしない。属国なら楽になれる。実際に日米戦争が始まる10年近く前にこのような会話を。この時点で乗客が敗戦や占領、日米安保体制までも予言していた会話が。聴いていた当人はエリートとして嘆くが。情けないと憤慨。歴史はエリートの輿論よりも一般大衆の世論のようが正しく言い当てていた。丸山眞男。48年のエッセイ。信越本線の車内で乗り合わせた3人の地元客の会話。忠実に再現。当時の日本社会党への失望と民主自由党への期待を。政治的事実に対する直感的把握が正しいものを含んでいるにもかかわらず反動的な方向に。断罪していれば良いとは考えていない。大衆の談義は寛いだ方言であるがために組織的行動よりも心底を規定する価値判断を。無責任な環境での放言の方が将来を言い当てている場合がある。「車中の時局談義」。一党優位体制を予言。公共圏そのものが現在は無くなりつつある印象を持つ。公衆浴場は非常に少なくなった。殆どの家庭に風呂場が。見知らぬ人が銭湯で話をする光景が珍しくなる。鉄道の車内も見知らぬ人同士が談義をする場では無くなっている。向かい合わせのボックスシートは東京の近郊にもよく見られたが、ロングシート、ベンチ型の座席に。携帯電話やスマホの普及。会話自体がなくなっている。
ゲスト。15年から16年にシールズの中心人物の奥田愛基。16年から一橋大学の大学院で政治学を専攻。著書で中学時代に沖縄の波止場島に。誰が何処で住んでいるか把握出来ている。「忘れられた日本人」での村の寄り合い。波止場島にも会議が。祭りや公民館で行事を。共同体や公共空間。実際にその場に居ると喧嘩もするし酒が入って。強制的に居ないといけないので大変だが決めていっている。原体験。共同体の体験。SEALDsの活動に。公共圏を追求する。これまでなかった色彩を。感覚的には誰がどのような生活をしていたか。公共圏としてのルールを維持する努力が必要。何かみんなが力を出し合うのが普通。喋ったことがない人についても手伝いなさいなどと。国会前にも組織されていたわけではないし、全員を知っている訳ではないが、手伝ってもらったりして。そういう感覚を自分の中では持っている。両方体験している。公共空間と共同体。共同体体験があったからこそ公共空間へのモチベーションを。どのようにコミュニケーションを取る感覚がないと難しい。他者と共同体の中で話すという経験が。繋がった上で活動が出来ている。空間そのものがコミュニケーションを媒介としなくても成り立っている。公共空間と共同体がともに無くなってきている。

 

日本政治思想史 (放送大学教材)

日本政治思想史 (放送大学教材)

 

 

揺るがぬこと。

昨日に続きblogを検索してこのentryがhitする。

 

このentryを書いたのは、2018年6月18日に大阪府北部地震が発生してから約5ヶ月後のことである。俗に「揺るがぬ大地」というフレーズが使われることがあり、聞いて何となく納得したような気になってしまう。地球上では勿論、本当に揺るがない大地である土地の方が多いと思われる。しかし残念ながら、私が居住する日本列島はそうではない。かなり高い確率で発生すると考えられているのが、南海トラフ地震である。

これは事前に予測されているが、予測されない(仮に予測がされても社会にそれが行き渡っていない)地震は数多く発生している。先の2018年の地震もそうであった。日本列島に住み続ける以上は地震と付き合わなければならない。

Valentine DAYの攻防戦。

明日2月14日はバレンタインデーValentine DAYである。日本では誰かが誰かにチョコレートchocolateをあげる日になっている。何故そうなったのかは問題であり、ゆうきまさみ先生の「究極超人あ〜る」では戦後のアメリカの進駐軍が日本の子供たちにchocolateをあげたのが由来とされている。まあ違うだろうけど。ともあれ小売業にとり商機であるのは言うまでも無い。弊店の入居する百貨店でも、一角を占めて各ブランドが各々のchocolateを競っている。何しろ2月14日を過ぎると途端に売れなくなるので必死である。商品特性上、来年に回す訳にもいかないから。なお弊店ではchocolateは今のところ販売していない。ううみゅ。

心理アセスメントとは(臨床心理学特論第16回)

かなり歴史の変遷がややこしかった。現実に役立つかどうかはいまいちわからなかったけれど。

 

小川俊樹。心理アセスメント。臨床心理士の主要な業務。心理査定。目的や役割。総論を。各論や実際についてはそれ以降。4つの専門業務の1つ。臨床心理査定。心理査定法を。個別性を描き出して活かしていく技能。相談者の個別性や特質を把握。方法は多様。心理学的な評価や判定、提案のため。アセスメントという用語は70年代ころから。今日では違和感なく。当初は違和感があったが。心理アセスメントにしても心理診断にしてもイコール心理検査と思われていたことも
心理アセスメントという言葉。人やものなどの評価判断。査定見積もり。評価判断。対象が人であれば人物評価や人柄の判断。日頃から行っている。隣の人。お店の人は?逆にお店の人は買ってくれそうな客かを。銀行員は投資話に乗りそうな人かを。人物評価は査定者が各自の判断枠で。投資や融資、預金といった経済的次元で。基準はそれぞれ。心理アセスメントの判断、準拠枠は何か。知的活動の性質や感情のコントロール、欲求、心理的働きと統合、個としてのパーソナリティ。課税する金額。資産価値の見積もり。その後の活動のため。心理学的援助のために何が最良かを決める。環境アセスメント。環境影響評価。事前の評価。2種類の意味。心理的個別性。心理的個人差を評価。心理学的援助のために心理学的判断。心理療法に対して心理診断。従来は個人差にも診断とされていた。知的な面の個人差。心理診断という用語。文献検索。86年の発行が最新。心理アセスメントを検索。最も古いのは75年。心理アセスメントという著書は80年代には皆無。心理診断という著書は80年代頃までは散発的に。69年の人格診断という心理学講座の1冊。目次にはアセスメントという言葉はまったくない。診断よりもアセスメントの方が適切という主張もあるとは書いているが。アメリカでは60年代頃からアセスメントという言葉は多様。臨床心理学体系の第5巻。アセスメントという用語が。最初に用いられたのはアメリカの報告書。特殊任務の兵員の選抜。アメリカでも10年以上定着にかかった。臨床心理学のテキスト。心理検査に日米の大差はない。用語の変遷はアメリカでもほぼ同じ。80年代の出版。第17章にクリニカルアセスメントが。先行すること約10年。診断や治療、療法と区別する。アイデンティティの問題。好ましい用語の使用。診断などの言葉を用いないように。診断の英語。2者間の識別。病気かそうでないか、疾患の鑑別。診断は病気か否か。人格診断としての心理検査。二者択一を想定していない。内向外向。得点が100点未満の場合は内向的。しかし75点はより内向的。相対的な心理的特質を問題。連続上で。本質的に診断は不適切。診断という用語の不適切な。類型。特徴を多量に持っているか否か。診断という用語は専門用語とみなされがちだが。経営診断、企業診断。通商産業省の中小企業診断士。診断は経営悪化の原因を。医者が患者を診察して症状を判断。事物の欠陥を調べ状態を判断。診断には悪いところを直すことを内包。心理的アセスメントは積極的に長所を見出す傾向が。心理診断は不適切。今日は多くの臨床心理士が。ロールシャッハ・テスト。アメリカで低迷した時期が。心理診断の危機という論文。心理アセスメントよりも心理面接心理療法に向けられたのが理由。その後はロールシャッハ・テストに関心が。70年代の境界例問題。鑑別診断の。構造化された面接に比べ構造化されていない検査で、有用性を。自閉症スペクトラム障害との関連で。心理診断が心理アセスメントに変わった変遷があるが、従来の心理診断と変わらない。心理的障害。性格診断。人格を。性格評価。パーソナリティの特質の判断を心理アセスメントと。力動と関連付けて、心理検査。目的により採用。心理アセスメントは心理的個別性の理解に。診断の場合は二段階の推論からなされる。心理検査。症状や心理的特徴、一時的推論。診断を試みる第二段階の推論。心理診断とは診断の確定を心理的症状で。心理的機能の把握。心理アセスメントは個人の心理学的理解。場合によっては従来のものも。知識基盤。異常心理学や精神病理学。心理アセスメントとは他者を理解するために記述する。人の環境との関係。決定過程。パーソナリティの仮説を構成する研究法。人の環境との関係について介入を。決定過程。心理診断。パーソナリティに関する仮説を検証する研究法。査定心理学。古くて新しい分野。アメリカで心理学叢書。査定心理学。心理学者や臨床心理士の心理アセスメントが心理学の専門領域を構成。個人の理解と個性の尊重。
心理アセスメント。面接、行動観察、検査。心理学研究法として。面接法、観察法、検査法。心理検査。知的な働きや不安の強さ。心理的機能の把握。多くの心理検査が開発。面接法。会話をしながら人柄などを理解。二者間の会話。英語のInterview。お互いに見る。目的や意図は2つに大別。クライエントの心理的理解。支援や介入を意図した面接。アセスメント面接、治療的面接。広い意味でのお話療法。アセスメント面接は情報収集が目的。クローズドクエスチョン。オープンエンドクエスチョン、拡散的。クローズドクエスチョン。はいかいいえ。パーソナリティ検査の質問紙法と投影法の違いが。閉じられた質問はどちらでも用いられるが。解釈という形で閉じられた質問が。アセスメント面接についても開かれた質問が、面接を比較的構造化されていない形式とされている形式。自由連想法、非支持的技法。DSM4のための構造化面接。自由連想法やクライエント中心療法。治療的面接に多く認められる。アセスメント面接は一般に治療的面接の前に。インテーク面接。受理面接。相談がどのような性質のものか、出来ないならどこに紹介するか。インテーカーが受理面接を。インテークカンファレンス。事例を受けるか、誰を担当者とするか。受理会議。事例記録は多くの施設で決まっていてインテーク面接は半構造化されている。受理面接では来談者の主訴や経過など多くのことを。根掘り葉掘り長くなりがち。目的は患者の生の特徴パターン。大学の心理相談室では経験者が。トップダウン的な。実習の一環として教員のインテークに陪席した後に。事柄のみに、形式的に。聞きながら頭にこの点はどうかと自然に浮かぶ。storyを読む。印象も重要な情報。来談者の服装なども、面接は会話。どうしても話された内容に注意がいきがち。どのようなイントネーションだったかなど話の口調や調子にも。専ら言語的なものだけではなく。主観的な側面だが必ず記載を。インテーク面接では担当が異なるのが一般。インテーカーとセラピストが一緒の場合、治療契約までの。中には明確に5回までの面接をインテーク面接と。観察法。面接時の来談者の表情など。目を合わせない、興奮して話すなど。心理アセスメントの1方法として観察法を面接法に含める?伝統的なそれと行動的な。伝統的な観察法。パーソナリティの現れ。行動的な観察。パーソナリティは関係で表出。行動アセスメントと呼ばれる。基盤となるのは学習理論、行動療法的approach。環境との関係を。関数分析。反応とは悩みの。標的行動。通常客観的に測定しやすい。生理学的な測定値。行動的アセスメントの方法。自然観察法。自然な環境で。予め準備。自己モニタリング法。内省報告。観察者が自分自身で比較できるよう記録を取り客観化。統制された観察法。人為的な環境下で。
心理アセスメントの方法。治療者や面接者側からの視点。しかし一方通行的なものではない。被検者も観察。2者関係における面接であるという特質。関与的観察。精神医学のデータは関与的観察による。サリバンなどが論じている。

 

臨床心理学特論 (放送大学大学院教材)

臨床心理学特論 (放送大学大学院教材)

 

 

 

投影法の現在 (現代のエスプリ別冊)

投影法の現在 (現代のエスプリ別冊)

 

 

慰め。

blogの中を検索すると、7年前のentryが出てきた。

 

この日は京都駅から歩いて30分ほどの運送会社で働こうと採用面接を受けたのを思い出す。現金輸送(略して「現送」と呼ぶことも多い)での小銭の処理が業務内容であった。entryをお読みいただきたいが、良かったことと言えば予定時間に遅れると会社に事前に連絡をしたことくらいで、それが慰めになったと書いている。何の連絡もなく予定時間に面接者が現れないと、当の会社も不安になってしまう(弊店でも一度あった)。今は携帯電話があるからまだ良いけど、昔は無かったからもっと頻度は多かったと思われる。今よりは公衆電話の数は多い時代だったけど。

森喜朗氏から川淵三郎氏へのrelayについての雑感。

森喜朗氏が辞任されて、後任には川淵三郎氏がなると各報道機関は昨日から報じている。藪から棒に話が出てきたので、マスゴミが勝手に既成事実化しているのではないかと勘繰っているが、これを書いている12時30分の時点ではその方向のようだ。例の女性蔑視の発言で辞めさせたい人は多かったけど、そもそも森喜朗氏はキチンとオリバラの開催に向け貢献していたのだから、変えたくないとも日本政府の上層部は考えていた模様である。しかしその発言はオリパラの精神にどう考えても愚弄している。これまでの日本社会では発言を撤回すればそれで話は済んだが、IOCやNBC(巨額の契約を結んでいる)は不適格と判断したのは致命的だった。ただTOPを降りるというだけで活動は続けるとのことである。

後任には川淵三郎氏がなるとのことだが、極めて難しい仕事になる。オリパラの選択肢は大きく3つ。中止か決行か再延期か。再延期すると日程やパリ五輪との絡みも問題になる。決行すると感染防止策を色々と考えなければならない。中止の可能性も大きいけど、撤退作業はややこしいことになる。貧乏くじを川淵三郎氏は引いたことになる。まあ森喜朗氏が説得したとの報道だが、事実なら彼はキチンと後始末をしたことになるだろう。事実上の引責辞任なのだから後任を選ぶ資格は無いとの議論も出来るけれど。

チャイナプラスワンのベトナム産業政策(アジア産業論第8回)

ベトナムから来た人間も私の街には多くなった。社会の理解が必要。

 

朽木昭文。チャイナプラスワンのベトナムの産業政策。ベトナムの改革。86年に開始。ドイモイ。刷新。ドイモイ政策。成長がある程度できたところへの是正をする社会政策。画期的なベトナム北部のクラスター。キャノン効果。今後の成長戦略。
ベトナムを近年で捉える上での、チャイナ・プラス・ワン。中国に加えてもう一つ。中国にある工場に加えてもう一つ別の国に。リスク分散。アジアに企業の成長を広げるのに必要。ドイモイ。中国の78年からの改革開放政策、ロシアの87年からのペレストロイカに相当。計画経済から市場経済に転換。その過程で大変なことが起こる。為替レートの切り下げ。86年に1ドルが15ドン(ベトナムの通貨)。90年に約9000ドンに切り下がる。円で想像すると1ドル100円が6万円に相当する。銀行に預けていたカネが紙くず、パーに。銀行を信用しないで金で資産を持つという行動に。91年に初めてベトナムに来てゲストハウスに泊まる。かつてはロシアからの客を受け入れる。ホテルによっては蚊帳を使う。8時位になると停電に。街自体に電気がない。レストランも殆ど無い。ピアノバーと後1軒くらい。そこから成長を開始。ハイパーインフレを経験。為替レートの切り下げに伴い当然は輸入する品物の物価を上げざるを得ない。年率500%のインフレ。どうやって克服するか。ショック療法が効果を収める。90年代初めにマクロ経済が安定化する。その過程で必要となるのが成長の核を作ること。92年から96年には8%以上の成長を。縦に長い国土に成長の三角地帯。3つの都市を成長させるという提言がハノイの世界経済研究所から。北部と中部ダナンフエ等と南部の3つずつ。南部は市場経済がかなり入っていて成長が早かった。北部は夜になると真っ暗に。北部の首都ハノイを中心とした成長戦略が。相対的に順調。ここ数年では南の方では不満が。中部。依然として成長が充分ではない。ダナンなど。経済成長の起点となるのは3つの都市にインフラを。道路や橋や港。成長基盤を作る。北ではハイフォン港のリハビリテーション。日本政府やJICAも協力。大抵の開発途上国でもそうだが、空港の建設を日本が助ける。ドイモイ空港、ハノイとホーチミンの空港への支援。ベトナムの成長も96年までは順調。格差の是正を。成長の恩恵に預かった人とそうでない人の。96年に社会政策が。これについて国論が二分。早すぎる?但し農村部の所得の向上は持続させないと均衡が破れ政治的な不安定に。96年には社会政策の重視が。大きなものとして国営企業改革の問題が残される。第二のドイモイ政策とも呼ばれる。86年に1万2千社以上が国営企業。中国は国有企業で経営は民間のマインドを持つ人が。所有者が国。国営企業は国のマインドを持つ人が経営を。市場をあまり知らず改革が進まない。それでも97年には5千5百まで減るが。大変な数。日本でもそうだが改革の難しさ。政府の人間も絡み改革がなかなか進まない。国営企業を残しつつ。01年になると社会主義志向市場経済、市場経済化を積極的に。混合所有。政治は共産党一党支配。文化は愛国主義に基礎を置く。一層の市場経済化。
01年4月の共産党大会。市場経済を明記。00年くらいから外国資本の投資の積極化。ベトナムの成長は外資の導入が。急速に成長を開始。国営企業の株式を外国人向けに売却する制度。95年にアメリカとベトナムが通商協定。外国の力をうまく利用することにより成長が見えてくる。典型例が北部ベトナムの電気電子の産業集積。キャノン効果。野村證券。工業団地。野村ハイフォン工業団地など。北部ベトナムの成長拠点に。住友商事も。初期段階では上手くいかない時期もあった。ゴルフ場を作ったりもしたが売れなかったり、それからハイフォンは開花。国道5号線。ハノイとハイフォンを結ぶ。投資手続きを簡単に、税制を優遇。キャノンが入ることにより他の企業を引き連れてくる。アンカー企業。アジア各地で同じ現象が。総合商社を中心にした日本の企業が工業団地を。アンカーとなる企業を。自動車は沢山部品を。電気電子も。産業集積が生まれ次のクラスターまでは完全に起こっていないが種になる。産業クラスターが順調に進む。なぜ外資が来たのか、その条件。人が居た。労働集約に適した人材が。インフラが整備。投資手続きも簡単に。国道5号線が重要だった。日本のODAが中心だったが。ハイフォンの港からハノイまで。整備されていない時期。朝の6時位に起きて朝食を取って4時間位かけて。道路と鉄道が一緒になった場所があり、鉄道を使うと車を止めて待つ時間がある。ここでお土産売が。果物を買って食べたりして調査を。帰りが大変で、電気もない中で車で突進。米を脱穀するような状況。死ぬ思い。国道5号線が完成して改善。ハロン湾が世界遺産に指定。007で情報基地に。ここに道路が開通して簡単に行けるようになり世界遺産に。01年にキャノンが生産を開始。6月に生産を初めて01年に6社が入る。02年には13社。産業集積。キャノンに関わる企業が。ドラゴンロジスティックスなど。次の産業クラスタートしての基盤になる。住友商事が工業団地を。ロジスティックスが入り重要な位置を。輸出志向工業化なので原料を輸入してそれを利用して生産。生産した製品を輸出。ロジスティックスが非常に重要。その後は電気電子産業の集積で、キャノンはタイでも生産。バンコクとハノイが部品の交換などで両立できないか。タイとベトナムと中国のネットワークの可能性。輸送会社が結びつける。ドラゴンロジスティックス。移動に関して色々と可能性を試す。アジアが一つになるモデル、可能性。
キャノン効果ははっきりと数字で示せる効果が。08年には4万人の雇用を。サプライヤーは100社に。この過程は大変だった。91年には空港から市内まで唸る。それが高速道路が出来て短くなる。1時間くらいに。最近は車が多くて時間がかかるという変化を。道路がどうなるかの問題が。ハノイの問題。まだ旧市街。新市街を新しく作らないと成長が難しい?とりあえずキャノン効果として成長したが、空港から市内までの様相が変わる。空港から10分くらいに工業団地が。サムソンの旗が多く見られる。気がついたらギャラクシーとしての基地の役割が。現在では韓国の存在感が圧倒的。北部においてもサムソンのスマートフォンが。13年には生産台数が1億2千万台に。工業団地にはサムソン専用の航空貨物の窓口が。ベトナム政府も優遇。税制については4年間は法人税を免除するなど。スマートフォンの生産基地に。スマホについてはiPhoneが圧倒的に強くなり中国メーカーの製品も伸びている。今後の予断を許さない。ベトナム北部も工業団地に頼るのは危険性があると政府関係者も認識している。2つの大きな方向。タイとベトナムと中国が繋がる。バリューチェーンが重要に。研究デザインから部品調達、マーケティング。顧客満足の最大化を目指す。鎖はアジア全体について。1つの地域統合。バリューチェーン。チャイナプラスワン。中国とベトナム、タイを繋ぐ。残ったインドやインドネシアがどのように絡むかの方向性。ベトナムはとりあえず外資で成長。投資環境の整備を15年に大きな問題に。第2段階。ハノイとハイフォンの高速道路の完成が必要。もう一度と呼ぶのは間違い。最大の問題は高速道路が少なすぎること。国道5号線は高速道路として建設したが、バイクも入る。豚を5匹か7匹、家族3人を1台のバイクで。交通事故の多発。車を中心とした高速道路の建設が必要。ハイフォン港。砂が溜まる。深海港の建設が必要。とりあえず工業化の方向は電気電子クラスターを中心としてバイクの方向性も。一定の目処が。中国と同様に次のステップの問題が。サステイナブルディベロップメント。持続的開発。環境破壊なき成長。どうやって目指すことが出来るかの議論が。11年から10カ年国家開発戦略。委員会が発足して長期的開発ビジョンを。5カ年国家開発計画。各セクターの。解決されていない課題の解消を。アジア全体に共通する問題だが、文化のもう一段の整備が。農業食品環境産業の産業連関を上手く高めることでクラスターを形成。例としてラムドン省のダラット。1500メートルくらいで軽井沢に相当。フランスが使った50年代の建築物、世界遺産を狙えるか?文化面の強化、消費の高度化で中所得の罠から脱する。JICAも協力してProjectを。農食環境クラスター、ブランディングも重要。工業一辺倒とは違う。政府関係者も提唱する人間が多くなった。農に帰るという方向性。ベトナムに注目する点。

 

アジア産業論―経済の高度化と統合 (放送大学教材)

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アジア産業クラスター論―フローチャート・アプローチの可能性 (社会科学の冒険2)

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日本の再生はアジアから始まる―チャイナプラスワン(ASEAN諸国、インド)の「成長トライアングル」を取り込め!

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