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ロシアの対外政策(1) 対米・対欧州関係(ロシアの政治と外交第11回)

外交関係を理解するには歴史的経緯を理解するしか他にないのかもしれない。

 

ロシアのアメリカとヨーロッパの関係。国内政治では指導者が大きな役割を。政治制度は色々とあるが、指導者により左右される。それでは対外政策は?ロシア帝国というのは広大な領土を。様々な関係を。ピョートル大帝以降。アジア方面などでも周辺諸国に影響を。ユーラシア大陸の大国として。国力と地理の関係。
ロシアはキリスト教国家として関係が深い。キリスト教文化圏としての。アジアではなくヨーロッパの。近代以降ロシアの人々はヨーロッパ諸国との関係に深い関心を。19世紀以降はアメリカの動向にも注意を。競争相手と共に模範の国家。ナポレオン戦争や世界大戦など大規模な戦争。20世紀後半には冷戦。他方で対立をしつつも緊密な外交関係を。ウィーン体制。ロシアはイギリス・フランスと共に支える国家に。ロシア革命後も緊張した関係だったが、30年代になるとフランスとドイツとの関係。41年以降は連合国として。克服できない歴史的蟠りを。互いに必要になるかもしれないという意識も。便宜的に手を結ぶかも。半ばまでの日本とロシアとの関係とかなり異なる。第一次世界大戦。17年に革命が起こるとシベリア出兵を。干渉戦争。その後も25年まで軍を。45年までは直接的戦争状態では無かった。2つの事情は無視できない。日本は何時の時代もイギリス・アメリカと同じ姿勢だった?無理がある。対ロ政策はかなり異なっていた。ペレストロイカに対する。イギリスは冷戦状態から抜け出す。サッチャーはゴルバチョフを評価。アメリカとも急速に友好関係を。89年から数年間、なかなか一致せず。ロシアは自国の東と西で同じ関係をとっている訳ではない。先ず問題となるのは、ロシアの人々がどのように見ていたのか。ヨーロッパの分断状態の終結。しかしロシアは転換を喜ばなかった。冷戦の終結には安堵していたが。しかし東欧のロシア離れには喜ばなかった。冷戦の終結からソ連崩壊に。90年代には混乱の真っ只中に。ロシアの面積は4分の3に。人口は半分に。それだけでなく、社会主義という明確なアイデンティティを失った。模範になると教えられていた。強い結束感を。改革の後に資本主義国としてやり直すと。ロシアには非ロシア人もたくさん住んでいる。ロシア民族の国家だけではない。結びつけるものは?90年代に混乱状態に。対外政策も混乱。新しい国家として、新しい対外政策が必要。92年に外務省は会議を。論点。ロシアと欧米諸国の対外政策。対立面があって注意すべき。欧米諸国の協調路線しか有り得ない。イデオロギーの為に犠牲にした?エリツィン政権は共産主義を批判。失業などの問題は長くは続かない。日本なども繁栄に向かったと。国内には欧米諸国の善意を信じる人だけでなかった。歴史的アイデンティティ。ユニークな歴史を重視すべき。ヨーロッパとの歴史的違いを。欧米諸国はモデルに。欧米諸国の一員として。旧ソ連から独立した国との外交関係。特殊な関係にあると考えて行動すべきか。国内では「近い外国」。旧ソ連諸国は普通の外国ではない。他にも多様な意見。反エリツィン勢力。対外政策の論争。大西洋主義とユーラシア主義。大西洋主義。西洋文明の国家。友好関係を基調に外交関係を。歴史的特殊性。欧米諸国と異なる。ユーラシア主義。対外路線の論争。国際状況の変化。東欧諸国はNATOの加盟を目指す。自国の安全を保障する。NATOの拡大問題。ジョージ・ケナンは反対。クリントン政権は拡大しかないと結論を。要請が大きな意味を持つ。エリツィンの国内基盤の弱さも影響。ロシアの対外政策の決定過程が不明確。90年代には野党が優勢。反米的意見が強かった。チェチェン紛争。独立を押さえつけるために軍事力の利用を躊躇わなかった。対応としてポーランドなどの加盟を。G7をG8にするという決定。EUもパートナーシップを。ロシア国内ではNATOの拡大が重苦しく。ユーゴスラビアの紛争。コソボ地域。ロシアと欧米諸国は対立した。ロシアの多くはセルビアに同情を。欧米諸国はセルビア政府に責任を。爆撃をしてセルビア政府を攻撃。ロシアと欧米諸国は深い亀裂を。国内世論の動向。世界はアメリカの一極構造に。ロシアはユーラシアの大国。ユーラシア主義への。認識は大きく異なる。大西洋主義という協調主義から離れる。
プーチン以降。00年に大統領に。既に緊張していた。01年9月の多発テロ。ロシアはいち早くアメリカへの支持を。ロシア経済の回復の為にアメリカへの対立は愚策。911以降欧米諸国はチェチェン政策に干渉しなくなる。真意は?現在も分からない。プーチンが反米的な国内世論を説得して良い印象を。主要国はプーチンの決断を称賛。G8首脳会議に反映。ロシアをホスト国に。G8の一員として認められる。主宰する地位に。暫くすると試練の時を。ブッシュ政権はアフガン戦争の後にイラク攻撃に。ロシアはドイツ・フランスと共に思い留まるよう説得する。イラクには経済権益を。しかしそれが理由ではない。国際法的理由が。イラク戦争の開始。他国の主権を侵すもの。テロ戦争で協力している。しかし米ロ関係に亀裂を。03年にグルジア。04年にはウクライナ。05年にキルギスタン。親米政権が出来る。ロシアの警戒。民主化の支援という名目で。ブッシュ政権がミサイル配備を。軍部にはロシアの抑制に。NATOにウクライナなどの加盟を進める。反米の世論が。プーチンも不満を隠さず。07年のミュンヘンの会議。ミュンヘン演説。対米批判以外にも。ロシア経済の成長。エネルギー価格の上昇が原因。経済援助を仰ぐ必要が無くなった。大国として遇されるべき。イラク戦争の際に、もはや冷戦時代のようなアメリカ・ヨーロッパ関係ではない。石油やガスの供給で経済が密接に。供給元として重みを。アメリカがイラク戦争で泥沼に。07年2月に正面からアメリカを批判。グルジア側から、ロシアが南オセチアの民族運動に加担。ロシア側では、南オセチアのロシアの部隊にグルジアが攻撃。グルジア側の攻撃に対して反撃で圧倒。フランスが仲介に入り短期間で終わる。南オセチアなどを独立国に。乱暴な行為と世界には受け止められる。アメリカも何も行動出来なかった。イラクの絡みで動けず。グルジアに経済支援を。旧ソ連諸国のNATO加盟を許さない。軍事的対立も辞さない。08年9月に世界経済の混乱。メドベージェフもオバマも国内問題に集中するために対立関係を棚上げ。プーチンでなければ対立から和解へと模索を。ヨーロッパ諸国もアメリカと同じ。10年のギリシア危機。プーチンもブッシュも去れば協調も可能に。静観していれば問題が解決されるのではなかった。ロシアの側に疎外感を生まないのは困難。民主化には問題がないと考えるのに対し、ロシアは価値観の押しつけと考える。11年9月にプーチンの復帰を声明すると対立が。ウクライナ国内での民主化運動。ロシアと欧米諸国の対立状態は留まることがなくなった。プーチンにとっては最悪の展開。NATO軍が国境配備に。欧米諸国の反発を。対ロ制裁を。最大の危機に。ロシアとウクライナ、ヨーロッパ諸国と緊密な経済関係。軍事紛争を拡大しないで済まそうとする動き。ヨーロッパの安全保障の問題。相互不信は消えずに残っている。ロシアと欧米諸国は便宜的和解に達する道と、冷戦に向かう可能性。

 

ロシアの政治と外交 (放送大学教材)

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