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岡潔の生涯と学問(放送大学特別講義)

学問を相手に学問をするのは確かに大変かもしれない。けれど人を相手に学問をするのは容易いように言うけど、凡人にはそれも難関だとも思う。

 

高瀬正仁。150年間の日本の近代。数学の領域に。岡潔という数学者。高校生活の前に数学の教科書を読む。他の科目は書かれているテーマが明確だった。数式と式展開だけで何が書かれているのかさっぱり分からなかった。数学者という人が居て、何を研究しているのか?数学という学問に関心を。桐生市の書店で岡潔のエッセイ集が目に留まる。35年に文化勲章。はしがき。人の中心は情緒である。情緒は民族や国により異なる。数学は情緒の表現の一種。西洋人にとって。数学とはどのような学問なのか、の答えがはっきりと書かれていた。同様に新しい疑問が。情緒とは?岡潔の人生を振り返る。01年に出生。父祖の地は今で言う橋本市。高野街道。昔の旅籠の一つ。粉河中学から第三高等学校、京都大学。広島文理科大学の赴任に先立ち洋行。ジュリア先生。昭和4年春に、文部省の在外研究員としてフランスに留学。パリ郊外に宿舎。薩摩治郎八により日本館が作られる。薩摩会館とも。入居する。中谷宇吉郎先生と出会う。北大の。帰国の途中でパリに。たちまち親しくなる。弟がシベリア鉄道でパリへ。29年7月頃。中谷十次郎が弟。妻もパリに。
数学の研究。ジュリア先生の下で。関心は多変数関数論へ。100編の論文の中に1編だけ多変数解析関数論が。読み込んで生涯の課題とする。難問を作り出し、解けなければ数学の将来はない、と考えた。長い思索の内に解決したが、失敗談も数々在る。出来たと思って論文を見せに行ったら、同僚の先生が、既存の論文の指摘を。同じテーマでも結果は正反対だった。間違っていると気づき恥ずかしかった。ジュリア先生に起こられたことも。ザクセルの定理。論文を見せに行ったら、真の発見とは言えない。一部をアレンジしただけだとお叱りを受けた。研究の姿勢は次第に変化して、難問を考えるようになる。背景には十次郎との交流が。岡先生より1つ年下。考古学を学んだが、行き詰まりを感じパリに。語学に才能があり、パリの学者で名が知られるように。イギリスの美術出版社のシリーズで執筆も決まる。30年から31年の状況。パリで頭角を。その矢先に、31年6月に体調を崩す、肋膜炎と、ローザンヌのサナトリウムで療養生活を。学問を続けられなくなる。費用は全て岡先生が出した。温泉街で別荘を借りて3人で生活した。日本郵船で帰国。由布院温泉に。昭和11年に亡くなる。広島に訃報が。
7年にもならないが、交流の模様はエッセイと手紙で。妻の節子さんに多くの手紙を書く。29年の手紙。パリから盛岡へ。37年春の回想。中谷十次郎さんと知り合う。縄文土器を集め論文を。何処か惹かれるところがあった。才気の人。学問に対して理想と抱負を。学問上の理想を。音叉が共鳴し合うように。理想の所在を垣間見る。昭和24年のエッセイでも。真の知己を得た。世界に稀にしか起こらない。31年の手紙。ローザンヌで。真の友情を得た。学問上でも多くのものを得た。物質的にも。金が途切れたが、自由に調査をさせてくれた。療養もさせてもらえた。トロンの貸し別荘。学問が遠い。学問を相手に学者になるのは大変なこと。人を相手に学者になるのは簡単なことだが。人に認められる。パリで成し遂げる。病気で学問ができなくなってそう思うように。毎日話しを繰り返す。人の称賛を求めて学問をするのは真の学問とは言えない。学問の理想を。
13年6月。広島文理科大学を辞める。吉備村に。研究に勤しむ姿は異様に。南海高野線吉備峠駅。太陽を見て立ち尽くしている。パリでは普通の学問をしていて、批評をしてもらった。人を相手にしているのだがうまく行かなかった。解けなければ数学の未来が無いという大難問を自らに課す。学問を相手に学問を。10年取り組む姿勢で。心は共にある。対話はいつまでも生きている。誰にどのように見られようと構わない。昭和21年。書簡。パリに居て多変数解析函数論を研究対象とする。陸地の見えない航海。本質的な部分は解けてしまった?翌朝目が覚めた時、一部が亡くなってしまったように感じる。まだ容易には解けそうもないと分かると、死んだ子が生き返るように。
戦後の数学研究。新たな難問に。昭和23年に大きな発見を。秋月康夫さんの回想。訪問を受ける。論文がパリに印刷されるに至る。湯川秀樹がアメリカまで渡る。朝永振一郎。両名とも岡先生の講義を。日本では無名だがヨーロッパには理解してくれる人が。フランス数学界の機関誌に。吉備村では無職。資産を切り売りしていたが戦後は困窮した。24年になって就職の斡旋を依頼。奈良女子大学に。落合太郎が学長に。岡崎に秋月先生の自宅があった。渋々手に取るとデカルトの方法序説。落合先生は岡先生をよく知る人だった。奈良女子大学の教授に。カルタンが大変激賞していた。ジーゲルが数回に亘り話す。別刷りを送ってもらいたい。昭和30年にはフランスの数学者が奈良を訪れる。昭和33年7月。ジーゲル先生が奈良に岡先生を訪問。京大の河合洋一郎。「ジーゲル先生と岡潔先生」。架空の人物名と思っていた。ブルバキと同じように、20人以上が関わっていると思っていた。実在の人物と聞きたいへん驚いた。ブルバキは数学原論の刊行。論文ごとに独自のideaがあるが、1人の人間の手になるとは思えなかった。数学そのものを相手に研究を。出来るか出来ないかわからない問題。誰も認めてくれないかもしれない問題。ある程度解けても更に難問があるような問題。岡先生の真価を認めている人間は少数ながら居て、皆一流の数学者。