F-nameのブログ

はてなダイアリーから移行し、更に独自ドメイン化しました。

記憶を記録に/津波で失われた写真の回収、修復、保存、返還作業(放送大学特別講義)

高槻で地震があったことさえ私は忘れていたから、東日本大震災なんてすっかり忘却していた。しかし忘れるべきではないと強く思う。

 

高橋和夫。「パレスチナ子どものキャンペーン」。岩手県大槌町。震災の3周年が近づく。震災の直後から。市民団体。事務局長の田中好子。大槌町の城山。町を一望できる高台。活動はここから。海と被災地。被災の跡、復興の建築が。この街で活動をした人やお世話になった人を訪ねて話を聴く。支援活動の特徴。津波で流された写真を集めて洗浄して持ち主に返還。陸自が30万枚の写真を。特定出来る写真を返還する。家族の写真を探していた。自分が写真洗浄に携わっている方が見つける可能性が高くなる。staffに手伝わせてくださいとお願いして。震災当時は地元の企業に勤めていた。震災があって会社に仕事に行く考えは自分の中にはまったくなかった。とにかく写真を探したい。生きる証。家族の思い出が詰まっている。1枚でも欲しい。会社を自己退職して。写真洗浄を。そうしなければどうなったのかと思うことはある。震災は家族の3月10日までの平和で暮らしていたのが、180度世界が変わって前も見えずに呆然と。その中で写真に携わることで生きる糧を。大変という感じはなくて気は楽に。持ち主から預かる。借りに来ているものをどのように返すか。色んな人が色んな表情で。カラー写真が泥をかぶって。きれいなものから洗浄していて夕方になって。中が綺麗で知っている人の写真。ご両親が亡くなって洗浄の2,3日前に写真を見に来た。連絡して来てもらい1枚しかないと。持って変える。1枚に対する、地域が薄かった。次の日から1枚1枚を大事に。泥がついていた写真を廃棄する方に入れてしまっては。少しでも可能性があるものは洗って乾かして。ご自身の家族の写真は見つかっていない。地元の人達6名に集まって。写真の洗浄作業とは?何時間でも話を。洗うか洗わないかの判断。専門家にも聴いて。幾つかの方法。完全に水洗い。これ以上流れない。全部乾かさないといけない。山のように並べて干す。1冊のアルバムからはバラせないので洗濯ばさみのセットに。1日に50人でも間に合わない。カビが生えて劣化してしまう。水洗いをやめる。黄色くなってカビが生える。ヘドロに入っているのですぐに劣化する。なるべく早く返す。劣化させない。写真の返還作業。案内を出すが仮設にも入ったばかりで最初は写真どころではない。地元の人達の写真が多くて。その点は地元で大槌の人たちが。誰々かが分かる。ある意味、大槌の人たちのプライバシーに入る。上手く行かない人間関係も。距離感のとり方は?殆ど皆が分かる状態。女性の方の。電話して写真が出てきたけどどうする?要らないってなる人も。中ではたまたま同級生のお母さんが流されて何も残ってない。一枚一枚見ていたらお母さんの写真が。1枚も残っていないというので届けに。一緒に涙が。手伝って良かったと。写真が戻ってきた人。作業をしているのは聞いていたけれど。慰霊祭があって行った時に娘が見に行ったら自分の写真だった。汚れが入っていたけれど。大切に。びっくりしたり嬉しかったり感動したり。自分の昔は重要。手元に戻ったものは焼き増しして持ち歩いている。どんなに嘆いても戻らない。自分で理解して進むしかない。家を建てることになった。30万枚の写真は?1割位はダメージが酷くて見れない。3万枚くらいになっていて、20万枚は何らかの形で帰ってきた。データは町に来て然るべきところで。30年も経つと町の記録に。昭和初期から平成への生活。もう一つの活動にこどもセンターが。保育士など。大槌の復興。若い人たち?が少しでも意欲を持ってもらい事業を始めてもらいたい。堤防が高いとか低いとかは関係なく。この町を活性化する。働く場所が必要。なんでも構わない。魚でも山でも。若い人はいない?震災の前から。居ないものを求めるのではなく。出ていく人を追っかけるよりも残っている人が。津波が来る前に人口減少や高齢化。知らない人はいない。津波があろうがなかろうが。企業に来てもらって都会に出た人も戻ってきてくれると良いけれど。若い人は居ないがなんとかしなければ。こどもセンター。契約の期間が切れるという時に、館長から大槌で職員を探していると。NGO。ちょうど働くところを探していた。すぐに働かせてくださいと。怪しい団体?なぜパレスチナ?そもそもパレスチナのガザやレバノンで。その経験を踏まえて。大槌町の活動はNGOを成長させた。最初に来たときには1人も知らない。3人の若者から。町の人達と一つ一つの信頼関係を。助けてもらう。出来ることは何なのかを考える。次の世代を育てる。周囲の人達はどのように活動を見ていた?まごころネット。何をやっているのか疑問に思った。苦しんで避難所に行くと夜になると助けてくれと。ある時に写真を見て涙を流している人が。自分の拠り所を探して。一歩も2歩も前に勧める。生きてきた拠り所は無くなった時に思い出す。写真でもなんでも。ビジュアルに見えるもの。被災者として自宅など全てを流されて。アルバムや卒業証書も。なくなった中で写真が残る不思議。1枚1枚が宝に。役場で働いていた娘を亡くした。役所の建物を保存すべきかを。避難場所。だからといって早く避難してねと。逃げた時にギリギリで小学校に。全部流されて。小学校は大丈夫だと車に居たら。小学校の先生が駄目だよと。夜になったら町が見えない。水がどこまで来ているのかも分からない。夜が明けて水が引いて。皆はここで終わっていい?無残な役場の姿を。言葉が無かった。手を合わせて娘にお詫びした。残さなければ。見たくないけれど。家族も亡くして同じ思いをさせたくない。認識してもらわないと。犠牲者が沢山出たということを。子どもたちに防災の教育の場に。明治の、昭和8年の記念碑が。皆忘れている。次の津波のときの記念碑も分からない。まだ生々しい。お話出来ることではない。派遣で来られた職人やボランティアや若者。10年も経つと記憶が変わる。どのように伝えるかが使命。見せたほうが良い。語り継ぐのは大変。震災時に40人の職員を亡くした役場。守るべき役所が被災する。防災計画通りに出来ない。震災の対応も出来るのか。当時は残った80名少しを分けてお遺体の。避難物資の受け入れなど。昨日言ったことと違うと。知らない組織が入ってきて。初めての経験。チリ津波の比ではない。人の支援や様々な思いを持った方が。我々では考えが及ばない。今それどころではない。先を見て大きく見てくれていた。後になってそう気がつくけれど。先を見ることが出来なくてゆとりもなくて。入学式をずらして翌日から給食を。牛乳やジュースの支援。学校が避難所になっているのだが返してもらわないといけない。助かった命をつなぐ。子どもたちにこれから先の空白を作ってはならないとお願いに。死ねというのか、という厳しい言葉も。子どもたちの学びの場の確保を。今思うこと。大槌町の児童の文集。本を読んでくれたり遊んでくれたり。仮設校舎に移ってからも。お世話になったことを忘れない。そういう大人になりたいと。1番出てくるのがボランティア。感謝の言葉。作文。あの日から心は絶望のどん底に。様々な物資が届いたが頑張ることが出来なかった。綿菓子を作ってくれて心も貰う。震災の時に生まれた子供。故郷と。原風景に。3歳の子供が来年は小学校に。故郷は思い出を振り返るだけでなく生きていたんだという営みを感じ取れるように。景色1つも震災以前と大きく違う。以前あった記憶を残したい。今後どのような復興を?ハードがもとに戻るだけでなく心が元に戻る。地域や人との関わりを。子どもたちが未来を担う。もっと海の向こうにも目を向けて。グローバルという言葉ではなく、人と人とのつながりがグローバルに。子どもたちが困った時に手を差し伸べるように。写真のデータベースが30万枚近くあるので、昭和初期から平成まで。プライバシーがそのままだけど、30年後くらいに町の財産として。図書館が駄目になった。3つの機能を備えた図書館を。資料のコーナーを。検索できたり。何年か先までも。中東で活動してきたNGOが東北で活動している実態を。行政の手が届かないところに市民団体が届く。市民の力こそが日本を。