五百旗頭真先生の講義を私は京都大学で聴いていた。お声を聴いて懐かしさに胸が締め付けられた。
五百旗頭真。11年3月11日。東日本大震災。かつて記録されたことのない大きな地震や震災。マグニチュード9.0。3県を中心に。最大の犠牲者を出したのは大津波。原発事故。福一。津波により冷却システムを失いメルトダウンで水素爆発。広域の複合災害。政府は当初、未曾有の大震災への応急対処。警察消防自衛官。人命救助や原発事故の収束に。4月11日。復興構想会議を。復興についての有識者会議で政府の提言を。議長を仰せつかる。16名の委員。御厨貴や安藤忠雄。専門家により検討部会。飯尾潤。二段組織に。2ヶ月半にかけて12回の会議を。原則土曜日に熱い議論を。報告書作りに。どうして構想会議を?阪神淡路大震災には全体構想を示す会議はなかった。復興委員会を。現地と中央を繋ぐスピード感を出す。提言を重ねてその全体が復興構想。全体構想を報告書としてまとめる必要が。現地の多様性。5月に委員全員が現地視察を。連休明けの委員会で復興7原則を。地域コミュニティ主体の復興を基本とする。国は制度設計で支える。国と国民が支える。潜在力を活かし。経済社会の可能性を。阪神淡路大震災では復興に国費は出せない、民力で。そのような壁が出来たがそれを排除。地域社会の強い絆を。災害に強い安全安心の。最も人々には絆が。社会の新しい課題である原発事故。自然エネルギーを。復興無くして再生はない。日本再生との同時進行を。視野狭窄ではなく。国のリソースを景気に向ける?二者択一的観点は正しくない。復興と日本再生を同時に。福島の原発事故の早期収束。きめ細かい配慮を。他の地域と全く違う。津波被災地の問題。違和感を。まだスタートラインにつけない。出来るところから。宮城岩手の。福島を置いてきぼりにするのではなく。今を生きる私達全てが我が事と受け止めて連帯と分かち合いをもって復興を。日本列島のどこも安全の地はない。復興構想7原則。実は復興税を意味している?反対の意見も。国債によるのか、義援金や民活も。阪神淡路大震災の場合も公債により。しかし状況が違う。失われた20年。国家債務はGDPの2倍に。復興税で支える?精神が大事。どこが被災地になっても支える日本国民の在り方を。失われたおびただしい人名への鎮魂こそ復興の起点。鎮魂の森やモニュメント。科学的分析をして国内外に発信。かつてない災害。かつてな支援を得る。義援金の額。世界中から。外国を訪ねるたびにどこにいっても心のこもった支援の感謝を。世界からの支援を受け止める。記録をしっかりと残して共有することを。支えになるように。2万近い失われた命の追悼と鎮魂。311の記念日が来れば丘に登り合掌して祈るとともに次なる災害には避難できるところに。7原則をもって復興構想会議は報告書を。様々な立場がありながらの方向性、憲法のようなものが。理想主義的色彩を帯びるが、小さくない意味が。7原則の制定により形が抽象的ながら固まる。具体化の作業を。
御厨貴。復興構想会議の議長代理。要所にあって全体を見回しながら。全ての委員が参加意欲を。なかなか話はまとまらない。全部聞くという議長の姿勢。暫くは耳になろうと。割って入ったりするのではなく、おっしゃることを全て聞く、そうすると方向性が見えてくる。要点が見えてくると。前半では何も言わずに。皆が喧々諤々。5時間にも。黙っていたことで調整余力をリザーブしていた。誰が起草をするか。御厨貴さんに。6月25日にまとまった復興の提言、報告書。非常に素晴らしかった。価値を高めている。書くにあたっての。社会科学系の論理的文章とは違う。雰囲気から。思いを社会科学では吸収できない。しかし感情過剰になってもいけない。詩のリズムを。気分を表したい。前文や結びで。会議のメンバーの中には激高している人や涙を流す人も。熱い想いを受け止める。国民的課題について人の心に触れるような。歴史家だから詩的ではないと思っていたけれど。大脳が開発された?嵐のような2ヶ月半。あれぐらい任された委員会はない。後から事務局が増えていく。リードせざるを得ない。政治学の専門家トリオ。良い意味でも悪い意味でも印象的に。政治学者としての限界もあっただろうけれど、互いを理解できて。暗黙知の形成が。実質的討議が出来た。政府やメディアもドタバタがあり襲いかかったり。政治学というのは総合の学。色々な要素を全体性の中で位置を与えるのが政治学者。日本を代表する歴史家が本職。震災の復興。関東大震災のときには後藤新平が全面に。大きなプロジェクトをする政治家。震災復興が投げ込まれて政友会や明治の元老との確執があり復興のスタイルが理解される前に揉め事が。技術官僚が一生懸命やったのが評価される。大風呂敷。6分の1に縮小されたが、国家予算全体の3分の1に。後に昭和天皇が評価された。阪神淡路大震災。下河辺淳。国土官僚、開発官僚。復興の全体デザインと。政治の過剰な介入を嫌う。官僚政治の枠の中で自民党と妥協しながら。設計図を先に作ってしまいそれ以上はしない。東日本大震災の場合は?偉大なる政治家や国土官僚といった固有名詞が出てこない復興であった。全体からすれば大きな仕事ではないが。菅内閣や民主党。前に出てくるのを押してくれた。会議体があったことは良かったのでは?全ての議論をすることが出来た。チェアマンシップ。若い官僚たちが元気が無かったけれど、今こそ出番だと相当程度頑張ってくれた。日本の官僚は凄いと。爆発的推進力は当初は無かったが、徐々に力を合わせて。後から力を蓄えたものが。
復興構想の完成とその後。留意したこと。全般的な政治状況。衆参のねじれ状態。政争が厳しく。それ如何によっては吹っ飛んでしまう可能性が。構想内容を作る中で超党派の全国民的な観点に立って作りたいと。自民党公明党にも。そもそも復興構想会議が作られたのは広域の複合災害で多様な現実が。それを1つの構想にまとめるのはジレンマがあった。取りまとめる16名の委員会は検討部会。個性的な委員で論客。イデオロギーが様々。空中分解の可能性も少なくなかった。リーダーシップを出してしまえば分裂しておしまいになる。全員で構想にたどり着く。徹底して議論をして毎回5時間が必要に。共通しているのは被災者のために意味のある復興構想を。日本の再生に繋がるような。再活性化しながら議論をして一致を。多様な異論があっても結論を出していく。報告書の内容。前文結ぶリード部分は御厨貴氏が。各論。政策内容。飯尾潤氏が尽力。二段構成。検討部会。各省からの優秀な担当者が。その人達を使いこなして。理想主義的色彩。具体的政策内容を。関連した象徴が沢山情報を持っているし、実施をするのもその人達。官僚のノウハウなどを活用しなければ。アイデアや主張や各省庁の意見を。縦割りを横に結びつける。まちづくりや農業、高齢化社会。官僚を集めて煮詰めていく。本会議で修正しながら構成。理想主義的色彩だが現実を踏まえた。各省庁が具体的政策を。11年の年末に向かって3党が合意。増税法案や復興庁の設置法案。構想が生きる環境が。より安全なまちの復興。減災。方途を組み合わせて。高台移転。100%国で。同じ港の近くでなければ。様々な政策を組み合わせて。阪神淡路大震災は自宅が潰れたのが問題。社会変化。高齢化社会や再生エネルギー。包括ケア。創造性やモデル性を持ったまちに。要は現場であり、自治体が如何に生かすことが出来るか。日本に災害から安全な地はどこにもないが、見捨てないで支えるということを。