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異言語との接点(2) -異言語との向き合い方-(異言語との出会い第5回)

大学で習ったドイツ語はおろか、英語や母語たる日本語もできないのだから、まだまだ道は長いと言わざるを得ないところ。

 

大橋理枝。異言語との向き合い方。2人にインタビュー。
斎藤兆史。日本の外国語教育。英語教育が専門。一般的に。基本的に中国語やオランダ語。島国でネイティブスピーカーとあまり接点がない。出島までの学習は読み書きが中心。音声情報が少ない。中国語も訓読をして。筆談をして。音声情報というより文字情報を重視。文章をやりとりするため、理解するため。丁々発止は少ない。それよりは文化の輸入を。読み書きが重点になる。ヨーロッパに比べて。文化の輸入から文字が重視。外国語学習の基盤を。幕末から明治時代の勉強の仕方。英語学習はフェートン号事件から。危機感を覚えて英語の習得を。蘭学や中国語の学習の仕方を踏襲。文法や読み書き。ネイティブスピーカーは殆ど居なかった。出島のオランダ人から習う。読み書き中心という意味では蘭学を踏襲。明治になると英語が中心に。ネイティブスピーカーとの接点。最大の使命は文明の文物の輸入。文字中心。お雇い外国人。大学で授業を。大学の講義でも板書を理解する。本を写すなどを。口頭言語というより書記言語。書き留めたノートが残っていて、ネイティブスピーカーでは書き取れない。下書きをしていた?普通に考えると普通のスピードで書き取れない。夜に綺麗に文章をして清書をして添削をしてもらう。優秀な学習法。文章にしたものを読む。日本のエリート向け。同じだけの努力をしている?学習者としても教授としても及ばない。
最近日本では英語ばかり。明治も途中からは英語一辺倒に。効率を良くする。それ以外の外国語の重要性も認識されていた。実用的な英語一辺倒に。誤解。英語はあくまで言語の1つ。なかなか使いこなすのは難しい。国際化したという幻想は危険。帰国子女は器用に話すが、中身がないことが。グローバルではなく大したことはない。日本語でも英語でも内容はない、尊敬もされない。外国から見た日本人を。中身があるかどうかが問題。母語で語ることがあるか。母語と外国語の関係。英語で考えることを推奨されている。母語でない言語で考えるのに無理がある。考えているつもりでも意味がわかってない場合が。英語で考えるのは出来ない。日本語で育っているのだから頭の中は日本語で。皆たいがいは母語で。学校教育も英語の授業は英語で、コミュニケーションの場で。中学や高校で日本語の母語者がコミュニケーションは取れない。授業検討会の授業。上手だが、教室の中でだけしか通じない英語で。きちんとしたものが読めるレベルでないと。単純で英語でやり取りしているのでは危険。グローバル化と英語が話せるのとは同じではない。母語でのトレーニングが必要。
英語教育への批判。色んな所から。何が間違っている?その認識自体が先入観に。日本語と英語は距離が離れている。文法も違う。基本的に難しい。それが間違っていると。相当な努力が必要だが、特に訳をしてきたのを間違いとしている。英語の習得の難しさを。訳も1つの方便。間違いとされているけれど。自分の母語を使って理解するのに必要。新しいことは上手くいっていない。もう一回文法や訳の重要性を。改善する部分はたくさんあるが、こういうことを、と試行錯誤するのは間違っている。日本の英語教育がどのような方向に向かうのが望ましいか?本道に戻って実用主義から脱する。色々な外国語を学んで考えていく。教養教育の中で。英語が重要なのは疑いがないが。きちんとした文法を踏まえて難しい文章を。今後の方向性は?英語が出来ればグローバルだという方向に向かう?何とか修正をしたい。向かうべき方向と向かっていく方向に乖離が。
欧州評議会が出した文章を日本語に。重要な理念としての複言語主義。どうして?EUの成立の元凶は。EUの参加国の国境は事実上無くなった。EUの参加国の中でも格差が。条件の良いところに動いている。イギリスのロンドンやパリやフランクフルトに仕事を求めて。EU以外からだけでなくEUの中でも。地域的に大きな都市が。バベルの塔。人の意思疎通がしにくくなる。狭い職場の中ではドイツ語ならドイツ語、それ以上のことは出来ない。問題が出来た時に理解し合うのが不可能に。拡大すると社会問題に。民族。コンフリクト、葛藤。それに発展。どうやって解決するか。移民や移動を止める。それは不可能。互いの意思疎通が出来るようにする。市民それぞれが能力を持つ。唯一の手段が言語能力。コミュニケーション能力。相手の言うことをわかりこちらも分かってもらう。出来ればフランクフルトの周りの人が分かれば良いが不可能。自分の言葉が大事。2つ出来ればどうにかなる。3つ出来るとそのような人が集まって互いに翻訳し仲介をする。その可能性も。密接な理解は出来ないかもしれないが差し当たっては出来る、そこまで持っていける。2プラス1。ヨーロッパが共同体に。複数の言語の習得が必須。
複言語主義の実現の考え方。欧州評議会。学校の教育。母語と外国語を分けるのではなく、言語という大きな概念を考えてその中で外国語教育も。言語教育という観点から。複言語主義が実現できない。逆かもしれないが。ヨーロッパ人の全てが母語の他に外国語を少なくとも2つは。簡単に言えばそれだけだが、具体的方法や理論付け。言語という上の次元に。どこから始めたら良いか。母語の能力は大事。それがしっかりしていないと他の言語も習得できない。母語をしっかりと。その上に立って、土台にしてもう一つの別の言語を。そしてその2つの言語を。過程や経験を基に3番めの言語を。かなり強い武器になる。そういう人が集まると共通の言語が。間を取り持つ、仲介する。翻訳通訳を。全然バラバラに話すよりもずっと互いの理解がしやすくなる。まずはそういう段階を目指す。言語の学習経験自体を他の言語の習得に。転移、表層面の転移だけでなく学習経験の転移。
複言語主義。外国語の授業は変化するか。主流は1つの言語、目標言語で全てをやってしまう。文法や内容も目標言語でやるのが良いとされてきた。言語の高い人でないと出来ないが。1つの母語の概念を。そういうことでなく、母語を土台にして新しい言語を。母語を大事に。その前提で新しい言語を。何のために新しい言語を?ドイツ人になる?そうではない。では何を目指して?今まで言われていたのは理想的な母語者をモデルに。言葉の使い分けなど。文法など。そういうことは置いておいて、必要なのは母語者であろうと別の人であろうと、英語をドイツ人とフランス人が。互いに理解は出来る、自分の意思が伝えられるということ。それを目指す。それから能力を徐々に高める。文法や発音の形式面を。コミュニケーションの内容を支えるために文法や発音や語彙を。ある言語の母語者が説明ができるとは限らない。日本語然り。
教員の役割。初めのうちは理解のために母語を使って構わない。必要な時に判断して使う。全部英語でやる必要はない。英語をやっても日本語で説明して構わない。対象によって言語を切り替える。なぜ切り替えるのか?自分の学習を振り返る。自分の学習しようとしている言語を対象化して分析する。具体的には今まで文法などは教師が教えていた。必ずしもしないで、準備が必要だが、生徒自身が、グループでも構わないが、ルールを見つけていく。言語間の共通点や相違点を見つけていって身につける。学習の範囲で。そういう能力を。昔は規則を教えるのが教師。規則を自分で見つけるとすれば、教師の役割を。アドバイザーやファシリテーターや相談相手。指揮官ではないが、授業全体をアレンジするのは教師。極めて上の次元に。能力や人格も深いところへ。複言語主義の結果。
今後の外国語教育の進む方向。今の状況の認識が必要。複言語主義の前段階を。言語教育が教育でどういう意味を持つか。母語の役割。認識能力の基盤。そこで出来たものを外国語の学習で幅を広げ深める。具体的には伝統的に英語が重要視。その次に、他の言語も身につけたほうが人間的に幅が広がり深さも違う。信じるならば意味がある。グローバルな世界の中で言語の役割は非常に大きくなる。重要なら英語の勉強を。ただ何年も勉強してわからないという状況を分かって。出来ればベースにして韓国語や中国語を勉強することは難しくない。楽になるはず。言語の世界が広がってくる。そういう世界が来れば良いと思う。
母語を大切に。母語は物事を考えるのに必要。継承言語での。言語教育という観点から連携を。

 

異言語との出会い―言語を通して自他を知る (放送大学大学院教材)

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