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アフリカの独立とヨーロッパの対応(2) -1980年代・1990年代-(アフリカ世界の歴史と文化第14回)

人種隔離政策を公然と取っていた国の体制が変わったというのは世界にImpactを与えたと同時代人からしても思った。

 

北川勝彦。草光俊雄。ゴードンムアンギ。吉田正夫。冷戦の終結とアパルトヘイトの終結。ソ連型社会主義の崩壊。80年代後半からのアパルトヘイトの廃絶。2つの動きは歴史に重要な意味が。
冷戦が終わりポスト冷戦期に。98年の演説。グローバル化のプロセスは誰もが孤立していないということ。相互に依存する存在。全ての人間が自由にならなければ誰一人として自由にならない。飢えも環境への行動も。アフリカの低開発は全ての人の関心事に。ルネサンスの勝利は全ての人間にとり尊厳のフロンティアを。互いに力を合わせて開発課題に。国連大学の演説。南アフリカの。98年4月に来日してアフリカルネサンスについて。21世紀に向けて大きな歴史の流れを。構成要素が全て絡まり合う。アフリカもそれに。アフリカの再定義。冷戦期はソ連と合衆国が覇を争う。政治や経済が。アフリカについても両陣営のテリトリーを互いに奪う。援助合戦が。冷戦から大きな影響が。アフリカは独立当時は様々な民族の集団が合流して国家を形成。経済の形成。強い政治力で国内をまとめることが必要。当初は複数政党制だったが、すぐに一党支配制で政治の仕組みを。計画経済を立案して上からの経済建設を。70年代は始めの頃に石油の価格の上昇。2回のオイルショックの影響を被る。非産油国は特に。多額の民間金融機関の借り入れや国際援助を。経済構造が多様化しない。農業や鉱物資源に依存。価格の変動で大きな影響を。債務の蓄積。社会サービスの低下。民族集団の争いが起こり政治の不安定化に。新しいアフリカの歴史は同時代的に。この頃は独立当時の明るさより負の債務を抱えた困難な時代。アフロペシミズム。援助する側は世界銀行や二国間の先進国からの援助。それを返済できない。先進諸国や世銀や国際通貨基金の援助。アフリカ諸国も条件を守り経済運営を。行動調整。経済の自由化やよき政治が出来るような仕組みを。条件付の中で援助をする姿勢に変わる。80年代中頃からの行動調整。日本も3公社の民営化。欧米中心の経済システムのグローバル化に巻き込まれる。80年代終わりになるとソ連が崩壊。学生時代では市場経済の移行。市場経済から別の体制へ、という議論。ソ連の崩壊は再資本主義化。再市場経済化。日本の場合も保守合同の55年体制が揺るぎ。ソ連の社会主義経済システムが崩壊する。ケインズの完全雇用政策や需要面を刺激する福祉国家システムがどうなのか、色んな面での行動調整が世界的に。イギリスでもサッチャリズム。ポスト冷戦期に政治経済の動きが。その中でアフリカも複数政党制を。民主化に。経済的には自由化民営化市場経済化。アフリカの政治経済を動かすリーダーも新しくなる。南アフリカの新しいリーダー。ナイジェリアやケニアやガーナでも。新しいリーダーは欧米で教育を受けた?アパルトヘイトの時代。現在はかなりアメリカやイギリスで教育を受けた人がリーダーシップを取る傾向が。新しい動きに敏感。アフリカにとり大きな問題は、覇権国に冷戦体制を維持するための援助が。冷戦が終わりEuropa自体が新しい市場経済化を。資金を投入。アフリカには援助資金が流れないで周辺化するのではないか。新しいリーダーが新しいアフリカの連合体や支配体制を。アフリカの開発のための先進諸国とのパートナーシップを。政治や経済や文化の運動という形で展開。アフリカルネサンスという主張。具体的にアフリカ文化を。政治経済だけではなく生活を支える女性の新しい担い手を力づける。戦後の前半や冷戦期から比べると様変わり。主体性をもって外部世界との繋がりを。若いリーダーが真剣に議論する。
具体例として南アフリカの話を。ネルソン・マンデラ。ゴスペル集。津山直子のプロデュース。南アフリカのゴスペルと。マンデラを讃える。著名な人について歌を。ちょうどポストアパルトヘイトに。ネルソン・マンデラが釈放された初期にケープタウンでの演説を。90年2月21日。平和と民主主義の名のもとに。預言書としてではなく下僕として。残りの人生を皆さんの手で。釈放のために運動を続けた何百万の人々に。大衆的なデモや戦いにより勇気づけられてきた。多数の人々はアパルトヘイトに未来はないと認めている。アパルトヘイトは大衆行動により終焉を。不服従運動は民主主義によってのみ完結する。何百万の家族の基盤が破壊された。将来は人種平等の原則のもとに民主的に。アパルトヘイトによる不平等を無くすには民主化するには。64年の裁判での言葉を引用。今日でも真実。白人支配とも黒人支配とも戦う。民主的で自由な社会という理想に生きる。必要とあれば死ぬことも覚悟している。釈放直後の演説。決意を知ることが出来る。その時に90年の10月にマンデラは来日。廃絶への動きの前にゴードンムアンギと吉田正夫に。90年前後にはアパルトヘイトの終焉が。マンデラを日本に招いて歓迎委員会の委員長に。90年に27年間牢に閉じ込められてきたマンデラが釈放。全世界の市民グループが歓迎の動きを。マンデラの釈放は国内の反アパルトヘイト闘争が。世界の市民グループが反対する動きを。アパルトヘイトの廃絶に大きな力に。釈放されて最初は欧米諸国を。今度はアジア諸国に。日本に。外務省がマンデラを招く。日本でもマンデラ歓迎委員会を結成するよう要請を受ける。関西の反アパルトヘイトグループが熱心に委員会を組織。東京でも組織を。特に幅広い市民の歓迎を。連合が出来たばかりで労働者の幅広い動きに。長年運動を続けた反アパルトヘイト委員会の人達が中心勢力。キリスト教を中心とした宗教界の。世界的な動きの一環。それまで日本政府が反アパルトヘイトの勢力からみると逆行する。南アフリカの最大の輸入国に。世界から批判。政府が歓迎委員会に加わったのは考え方を変えたということ。国会の中に反アパルトヘイト議員連盟が出来ていた。政治を動かしたし一緒に運動する基盤になる。マンデラが来日された時に国会演説が実現。外務省と話していた時に前例が無いと言われたが、国会の議員連盟の動きで。歓迎行事も盛り上がり。大阪では2万人。東京では最後に日比谷の屋外音楽堂で。演説を直に聞いた人が。国会の中継。アパルトヘイトを身近に考えていない人も受け止めてくれた。世界史的な意味があった。日本でも一般市民も含めて考える機会に。80年代半ばから90年代にかけて。日本に来たのは74年。南アフリカのアパルトヘイトの国。直の問題。もっとギアアップしないといけない。隣の国からゲリラ活動を。マウマウの話もケニアの話も。人種隔離政策。記憶があるからこそ来日した時には長く居られないなあと。京都大学の政治学。日本だけ反アパルトヘイト運動をやっている。南アフリカと日本の出会い。南アフリカのアパルトヘイトの廃絶は国内だけでなく南部アフリカの国々などの国際的な動きの中で。Londonでも。日本も決して例外ではなくきちんと対応してきた。日本の動きを知って長く暮らそうと思ってきた。そういう中で社会が動いて、日本と南アフリカの関係も変わってくる。関係の構造調整が。新しい時代に移っていった。

 

アフリカ世界の歴史と文化―ヨーロッパ世界との関わり (放送大学大学院教材)

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現代アフリカ経済論 (シリーズ・現代の世界経済)

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