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認知症高齢者への看護ケア(老年看護学第12回)

家族の介護が私には10年以上出来るのかなと感じた。家族の介護が私には10年以上出来るのかなと感じた。


山川みやえ。認知症高齢者への看護ケア。認知症は知らない人は居ない。ケアの最も難しいのは本人の主体性。家族や周囲の人の影響も。認知症の定義。知能が広い範囲で継続的に低下。どうしたら良いか分からない。 言葉が出てこない。など様々な症状が。できなくなることが多くなることへの恐怖。家族も目の当たりにして苦しむ。本人と家族の関わり合いが上手くいくようサポート。インタビュー内容を聴きながら。関西に済む家族。奥田さん。妻、3人の子ども。60代後半。寿司屋の大将。アルツハイマー型認知症と診断される。長女に話を聞く。沢山サポーターが居たが主に介護をするのは妻。病気の勉強も。悪い情報が入る。どう受け入れるようにしたか。いきなり症状が進行するわけではない?知る上で辛いこと。知識や情報を得る中で大まかな症状の変化や流れは分かる。精神情報や身体の症状。一番辛かったのは父が最初は診断受けてすぐにどの症状にあてはまりどうなるか、何時まで生きれるか。何も知らないといろんな情報を得ると。何もわからない不安と情報の多さで頭が混乱。多くの不安が生まれる。本人や家族などの精神状態が不安に。経過を辿らなければ分からないことが不安。死んでしまうかどうか。いつかは死ぬ。認知症についての情報。昔の人はボケたとか聞くが、今は進行の状態が分かる。経過の中でいつかは。何時?余命宣告があるわけではない。どうなるの?アルツハイマー型認知症について情報を。一体何時なのか、何があるのか疑問を。先が見えず不安で怖い。沢山のサポーターが居た。妻は若年性認知症の会を立ち上げていた。専門職やボランティアのサポーターと交流的に。しかし介護は自分でしたいと。抱え込んで。サポートは心強いが対応がわすらわしい。サポーターで専門職の人が姿を見て。支えだと言ってくれる。われを失いそうになったときに原点になると。母は周りの人が必死で介護をしてくれていた。肩の力を抜いてと言われるが。サポーターの人は認めてくれて。父について。家族は父が出来なくなってしまう姿、衰弱する姿が。マイナスが。周りの人はすること一つ一つについて職人の父を見出してくれる。そういうサポートが大きかった。自分の居場所でできなくなる自分は父にとり辛い場所だったが。父はその時に笑顔。それがすごく父にとっては嬉しかったこと。出来る場を自分の残存した機能を発揮できるように。父は自営業だったし作ってもらえたから出来て、言われるように辛い場面があったりしたけど。サポートする側とされる側が区別されるのではない。共に成長する。負担になっていると思いがち。サポートしていると無意識的に。徐々に病状が進行。合わせて徐々に仕事や能力を諦めることに。寿司屋もたたむことに。父の状況を見て辛かった?振替えると父を思い出して一番つらい。腕のいい職人だったしそれ以外でもなんでも出来る器用な人。段々と出来なくなっていく自分を受け入れて。プライドが高かった。でもそれでも父は受け止めて現場の中でできなくなる自分を受け入れて。自分の居場所を追われるように。洗い場に居た状況。挨拶が出来るが仕事は任せられない。洗い物一つも出来ない。洗い残しがあったり。家族に注意され情けない状況に。妹と言い合うところも。注意したつもりでも、もういい、と言い手を止めたり。それが辛いこと。認知症進行の段階。精神症状と身体症状、その中での葛藤。本人も家族も辛かった。涙が溢れてしまう。本人と家族にとり一番辛かった時期。母もしんどかった。思い出すと涙が出る。その頃は夫の大事なものを何もかも取り上げてしまったと母が。母へのサポートは?母のすることに対して意見を言ったりもしたけど母の意思は尊重していた。母が介護していたりしていた。あくまで母が思うことに寄り添うのが一番だと。本人の気持ちも尊重した上で。最初は母は自分が頑張らなければと。サポーターは多いけど孤軍奮闘。途中から段々と周囲の人に頼るように。絆が深まった?母も強い人で何でも自分で。若いから色々と出来た。お店を閉めるときには体力問題がきっかけ。どうにもならない現実を垣間見た。子どもたちは両親に気持ちのところでサポート。現実は両親の介護となっても自分たちの生活はあるし現実を優先するのが。生活もあるが両親と共に生きていきたい、サポートしていきたいと、それが母に伝わったのか耳を傾けてくれるように。甘えてくれるようにも。家はサポーターがいっぱいいると。ボランティアのサポーターも子どもに頼れば楽になると。その後は色んなところで頼るように。子どもに迷惑はかけたくないと思っていたが。子どもがこうしてくれると笑顔で周りの人に。すごく思うのは、昔ならこの関係が普通だったと。おじいさんおかあさんが自宅に居て介護をして。今は核家族が増えて。介護をするのを母が望んで何でもかんでもやるよと言えなかった。この人は私が居ないとダメだからと惚気ける。自分の生きる道だったり責任だったり。母は認知症がわかり最期までやると。色んな変化があったけど。ずっと貫き通す。母の責任や愛情の深さ。なので子どもも寄り添うことが出来た。繋いでいけると。母は外での介護もしていたので繋がって。徐々に母が周りの人を受け入れて。具体的サポートは?家族経営。両親が主体で。私も実家を手伝いして。弟も休みの日は。認知症と分かっても仕事を続けていける環境に。仕事をサポートして両親の変化も見える。見える関係性。頼れる部分もあったし子どもで無ければ頼れなかったことも。お客様も知っているから任せられた。サポートをしていける。認知症になってすぐの時点から近くに居た。仕事をしていたのは両親なのでサポートを。段々と任せていく。その中で仕事だったり自宅のことだったり。仕事を畳むときの状況もあり信頼や絆も深まる。長い経過の中での変化。離れていたらわからないことが沢山ある。たまにしか会わないと変化に気づかない。仕方ない環境もあるが。定期的に話を聞くことで情報が入るし受け入れていけるし情報収集や対処だったり心の準備だったりが。他の方に願うのは少しで良いから話をして欲しい、関わって欲しい、それだけで変わることも。母も体調を壊すことが。心配は子どもにもあった。元々身体と精神が人一倍強い。年齢と共に父の介護などで体調を崩す。やっと子どもの声が母に届く。自分で何とかしなければと受け入れないという形だったが。人はみんなそう。自分が納得して受け入れなければ休まないし動かない。身体がだめになって周囲に助けが必要なときに家族やサポーターの声が。サポートしてくれたのに気づく。母は周りの人との関わりで任せたり甘えたり。母の体調管理。最近良く言うのは食べることや寝ること。無理しても食べる。太った(笑)やれなくても寝なければ身体が持たない。2つは母にとり必須。父にも。食べることと寝ることは父の体調管理で大切。決断を子どもたちが尊重。そして18年の夏。介護生活10年以上経って。誤嚥性肺炎。胃ろうの選択を医師から持ちかけられる。胃ろうにするか決断を。父の身体の状態が急変していたのは事実。身体機能の低下で体重が減っていた。歩行しても転倒したり立ち上がるのが遅かったり。嚥下の方も低下してきてむせたり。それでも座っている状態もあるし立ち上がるのも出来る。急激に状態が悪化。嚥下機能も低下。医師からこのままではダメだと。栄養も取れない。母は胃ろうしないと。延命措置はしない。あくまで一般的な進行で。あまりにも急で母は葛藤していた。決断で全てが決まる。今までなら母の決断で決まっていたと思う。周りに意見を求めたり話を聞いたりしていた。母の意思を尊重したいと。しかしあまりにも急。今は逝くべきではない?その中で胃ろうについての知識が無かった。医療の専門の方がどういうものなのかを。自分のエピソードだったり。胃ろうしても口から食べることも出来る。栄養を取って口のトレーニングが出来れば食べれると。胃ろうを決断。最初は迷っていたが、時間が経過して良かったと。駄目になる?奇跡のようにいろんな症状を。今は言語聴覚士の人が諦めずにリハビリに。レモン汁を少量ずつ飲んでもらい飲み込みが出来る。口になにか入ると積極的に食べようとする。レモン汁が飲み込めて飴をなめる。すごく美味しそうな口。口も拭けて意思疎通が出来ている。返事が返ってきたり肩を叩いてもらったり。あくまで予測であり可塑性がある。無理は禁物だけど本当はどう思っているのか父の側に立って考える。理学療法士のリハビリにも。色んな人に感謝して頑張っている。家族の迷い。あくまで前向きに。何のために選択してどのように暮らすかが大事。