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各論8・超国家主義と「国体」(日本政治思想史第11回)

令和元年の風景とあまりに似すぎている。

 

超国家主義は大正時代の将来の昭和天皇のヨーロッパ訪問がきっかけ。東京と京都に3万人以上が。日比谷公園に永田秀次郎という人物が。皇太子帰国後の変化。9月3日以降の我が皇室は我々のもの。直接に7千万同胞のもの。皇太子も。我が国体の精華は晴朗なるものとなった。光風霽月。雨上がりの爽やかな風と冴え渡る月。国体が帰国以降、はっきりとその姿をあらわす。国体をはっきり認識したのはお上の側だけではない。「現代史資料」の4。君民一体の。国民大多数の幸福。権利なり。安田善次郎は君との間にある君側の奸。暗殺を正当化。上からの天皇制の転換。下からのナショナリズムの台頭。久野収。「現代日本の思想」。超国家主義。伝統的国家主義の元老などや軍閥を誰彼の別なく悪の元凶と断じる。明治以来の伝統的国家主義からの切れ目を。「昭和超国家主義の諸相」。血の叫び声。その後の日本の超国家主義の歴史に最も早い先駆としての。敗戦直後の「超国家主義の論理と心理」とは違う意味。21年の11月に摂政となる。大正天皇の病状を発表。脳力は日をおいて衰退。抹消器官の故障ではなく。ご幼少の頃からの病気に原因。幼少期に脳の病気に、完治しないまま成長。かなり誇張して伝えている。御用邸を転々とするなど一般社会から隔離。一般民衆から完全に遠ざけられる。そのことが病気の悪化に。16年8月の象徴についてのお言葉。重病などにより役目を果たせない場合は摂政を置くことも考えられるが。生前退位の意向を強く滲ませた。摂政を置くことの拒絶を。大正天皇を強く意識。摂政は広く全国を回る。天皇になるまでに全ての都道府県の他、台湾や樺太にも。皇太子が24年に福井市を訪れたときの牧野伸顕の日記。国体を目の当たりにした牧野伸顕の感激ぶり。天皇になっても日中戦争が起こるまで全国の行幸を。違いは植民地を含む各地に国体が視覚化。君民一体。万単位の民衆が万歳三唱などの奉仕を。選挙権を持たない女性や学生、植民地の人も。君主が言葉を発するよりも様々な奉仕を行うほうが一体感が高まる。植民地にも応用できる。23年に台湾を訪問。国体論は何故生まれたか。多数の児童生徒が動作をやり遂げる、国体という秩序の理想。自立と一体感。一視同仁。誰をも差別せず全ての人を平等に親愛を施す。植民地でも視覚化。君民一体の最大の政治空間。宮城前広場。関東大震災のテント村を排除。空間の形成。上野公園に代わって政治空間に。昭和になると親閲式や記念式典、戦勝祝祭式。二・二六事件。暁雲を跳ね除けなければ。天皇を胴上げを。雲の上に祭り上げて雲の下が勝手にやっているが。強ち幻想ではない。二条橋。暁雲、怪しげな雲を払い除けて日本の姿を。君民一体の視覚化。触発されたもの。37年の日中戦争以降、地方訪問の中断。宮城前広場が唯一の。シンガポール攻略、天皇が白馬に乗って現れる。朝日新聞の記事。宮城前広場は静寂に。夢見る心地の。大元帥陛下。馬を止めさせ給うた。広場に赤子の波濤が。怒涛。天皇陛下万歳。君が代の歌声に変わる。長文の記事。戦時下の言論の自由が極端に制限されたもの、いくらかの誇張はあるだろう。記者自身が涙を流しながら書いたような。大東亜戦争に勝ったという感動。昭和天皇も勝利の幻想に酔っていた。ミッドウェー海戦以降も幻想から抜け出せなくなっていく。
視点を変える。30年代に全体主義が台頭。ドイツとイタリア。第二次世界大戦で同盟国に。しかし決定的な違い。ドイツやイタリアでは権力の簒奪者が現れる。言葉を通して国民にイデオロギーを。権力によって都市に建築物を作り都市空間を。日本では権力の簒奪者は現れなかった。摂政となり天皇となり在位を続ける。昭和天皇は基本的には無言。権力により新たに建築物が出来るということもなかった。既にあった空地が政治空間になる。天皇が去れば空地に戻る。宮城前広場も同様。紀元二千六百年式典のように仮宮殿を建設しても、終われば直ぐに解体する。仮宮殿は式典が終わると共に移築され、小金井市に。皇族が現れた二重橋。元々は橋。既存の建築物を利用しただけ。わざわざ建てたという訳ではない。敗戦とともに全体主義が崩壊したドイツ・イタリアと比べ、戦後も天皇制が続いた理由。人為的に作り出したという自覚を伴わない天皇制が生き続ける。ナチズムやファシズムと異なり、派手な建築物に訴えず空地を使う。政治体制が代わっても空地は残る。戦後巡幸の途上でも戦前と同じ光景に。ナチズムやファシズムには正当化するイデオロギーがあった。昭和の日本には?イデオロギーを作ろうとてし37年には「国体の本義」。しかし国体の言説化は出来なかった。視覚的支配。37年の日中戦争から東京に限られるように。視覚的支配に代わり、時間支配が大々的に導入される。内地はもとより植民地や満州国、占領地に及ぶ。時間支配の魁は即位礼。紫宸殿の儀。時計を合わせて臣民が京都の天皇に向かいバンザイを。近衛内閣は時差を無くした上で祝祭日や記念日や伊勢神宮参拝などに、時間を合わせて遥拝などを。戦中期の時間支配。40年までの3年間に限られるリストだが、実際は45年2月まで続けられた。同じ時間に同じ姿勢を取ることで天皇と一体化。「想像の共同体」。1人のアメリカ人はほんの一握りの人以外、会うこともないし名前も知らない。それでいて匿名の行動に確信している。アメリカ人を日本人に。戦中期の時間支配の説明としても通用する。国民だけでなく植民地や満州国などにも。神国ならではの神々しい。形式に走るならば深く反省するべき。イデオロギーなき支配の危うさ。満州国で溥儀が皇帝に。行啓をして視覚的支配や時間支配を。直接言葉を発すること無く。多民族国家の支配に都合が良い。盲目的服従を。封建的支配を。溥儀自身も良く知っていた。

 

日本政治思想史 (放送大学教材)

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