システムだけ導入しても思想の内実はなかなか定着しないものであるらしい。今でも無理なようかもしれない。
有馬学。議会政党選挙。議会や政党、選挙は今日では政治制度の根幹に。明治時代に輸入。明治23年。10年後は政友会という巨大政党が。伊藤博文が代表。藩閥の指導者が率いる。総じて言えば比較的短期間に定着。とりわけ選挙という競争システム。時間をかけた合意形成とは全く違った。地域社会の末端には?拒絶反応ではなく選挙の興奮に。定着過程について、地方的基盤において日本の政治を。政党の成立から。
明治の日本人が政党を如何に理解しようとしたか。福沢諭吉。3度の洋行。西洋を直に体験。科学技術に関わることでは驚かなかった。本を読めば分かる。福沢諭吉の理解を超えたのは、社会制度や政治制度。機械文明に驚くのではなくシステムの理解を。如何に明治の日本人の理解を超えるものであったかを。自伝で。2度目の海外渡航。選挙法が分からない。どんな法律で議院とはどんな役所か。党派には徒党のようなものが鎬を削る。政治上の喧嘩。分からない。大変だ。日本随一の西洋事情通にしてこの有様。73年の板垣退助らが愛国公党を。1910年の自由党史が主張。徒党を組む。既存の日本語でpartyに近いのが党という名辞。苦心の跡。90年末の帝国議会。多数派は立憲自由党などの政党。制限選挙ではあったが国民から選出。議会と政党との関係、選挙の実際。
議会の解説と政党選挙。帝国議会の権限などは制約されたものだが、民意を反映しなかったわけではない。大日本帝国憲法。実質的な予算の審議権を。議会が同意しなければ予算は成立しない。増税もまた議会の同意を。最初の議会で立憲自由党や立憲改進党。政府の予算案の削減をしようとした。地租の低減は利害に直接関わる。地租は最大の税収だった。定数300の衆議院において反政府等は過半数を。問題はこの場合の経費節減。政府が同意しないと出来ない。採決前に政府の同意を。事前に同意を求めても無理だから交渉を。自由党内の土佐派による。土佐派の裏切りとして語られる。初期議会。第4議会ころまで。富国強兵と民力休養。予算を巡って激突。実際に91年末からの第2議会でも政府予算案の大幅削減を。解散で応じて第2回の総選挙が。そこで使われ始めた民党と吏党。選挙の性格。何時頃から使われるようになったか。中江兆民が。幸徳秋水が書いている。中江兆民全集。立憲自由新聞で土佐派の裏切りを批判。おそらく初めての例。土佐派に憤慨してか議員を辞任したが。しかし全国に流布したわけではない。民党吏党という言葉は、地域社会の末端に浸透。きっかけとなったのは92年の第2回の総選挙を通して。死者などの流血衝突。松方内閣の選挙干渉。過程で政党制のシステムが定着するのに意味を持つ。
第2回総選挙。衝突は広く知られている。政府の指令によるものとしては意義もある。地域的党派関係から複合的に。一方の党派によるのには警察の暗黙のものも。福岡県。安場保和知事のもとで玄洋社や熊本国権党の衝突。死者も。永江淳一の手記。生々しい。福岡県第6区。党の候補者の活動を。刀で足を切られ縁先に放置される。吏党と知事の関係を物語る。党派的背景を持つ県知事のもとで警察が黙認。実力行使は一方のみでない。地域社会における党派的な対立に二項対立的な要素が。宮崎県では民党対吏党の紛争が頻発。数多くの地域紛争が。民党による支配。大字の中の1つの字が民党。村落内の軋轢により想像されるような構図とは逆。役場小遣いや学校小遣いに至るまで民党になる事例も。自党になびかない小作人から土地を取り上げようとする自由党の地主も。大字。紛争では地域住民の殆どが民党吏党に選り分けられる。大字という地域社会。大字間の対立。町村合併への不満。町村のうち4分の1を超える。それでも400近くのものが100に。地域の生活空間が再編成。住民にとり不安が。日本民俗学の柳田國男。大字は対立するものであった。隣村は肌合いが違い反発心が。なんでもなかったように落ち着くには60年ほどかかることも。合併による新しい町村はアイデンティティに不安が。数による意思決定という異質なものが、選挙制度。不安と緊張をもたらす。第1回では1%に過ぎなかった。多くの住民も熱狂的に参加。栃木県では10倍もの人間が講演会に集まる。地域感情を背景とした住民全体が対立構造に。党派的対立の中では政治理念の違いは意味がなかった。
地域感情に基づく大字の対立。政党システムの日本的定着。民党と吏党の政策面の違いは地域社会ではないに等しい。でも関わらず二項対立的な図式として定着。民や吏が含む価値意識。民は逆に地域社会でプラスの意味を。福岡県の第2回総選挙。玄洋社。反自由党。新聞では偽の民党などと。対立党派も民党というのを否定は出来ない。本当の民党ではないと。吏党派とされた人々も選挙の担い手で同じ出自。玄洋社の人々も自由民権運動の担い手。民党吏党の紛争。九州地方では地域結社のゆるやかな連合体として九州改進党が。解党後も親睦会が開催。地方の結社活動を盛んに。大同団結運動。89年に後藤が入閣して運動そのものが分裂。大同倶楽部への参加を巡って。民党吏党とっても同じ運動から派生。政策的理念に大きな違いはない。初期議会に吏党の指導者の中には自由民権運動の担い手であった者も多い。人脈が吏党という政治的人脈に。政党の地方的基盤の。末端で政治勢力の競争が。政治的に構造が。第2回総選挙が選挙干渉として。党派間の対立が定式化したということ。新たな町村が心理的に定着するのは2世代を要する。末端の地域社会では政党は地域の人間関係そのもの。選挙権がなくても参加資格を持たないことにはならない。居住する地域で何者かを語ることが出来る。町村制というものは帰属意識を破壊しようとした。村人の観念についての大字。選挙という制度の導入が大きな意味を。誰にでも結果がわかる競争システム。競争が可視化されやすい。政治に参加できる非日常的経験。上位の競争システムに連動することで中央の対立が影響する。政治的に主体化を。
西洋から輸入された政治制度は比較的短期間に定着。伝統的な村落共同体に異質なものを拒絶するのではなく自分たちの価値観に応じて取り込む。地域間の強豪にフィットした。