今世紀に入ってから様々な能力が重視されているけれど、そららの能力を測る物差しは未だ明確では無いように思われる。そして、その状態を日本社会が是認するかも問題であるように思える。
-----講義録始め-----
教育文化の社会学においては、日本社会の特徴的な文化として「努力主義」が挙げられます。この努力主義は日本の学校教育に深く根ざし、努力と勤勉がその教育を支えるエトスとなっています。さらに、日本には平等圧力が高く、人間関係の円滑さを保つために階級差が目立たないよう努める傾向があると言えます。このような文化的背景から、日本社会は能力や努力によって社会的地位を確立する「メリトクラシー」の傾向が強いと言えます。
日本のメリトクラシーは「努力型メリトクラシー」であり、才能よりも努力を重視します。これは福沢諭吉も「勉強」という言葉を使っていなかった時代、つまり明治10年代あたりから、努力して社会的成功を目指す立身出世主義のイデオロギーが勉強に結びつき、この意味での「勉強」が形成されたことに由来します。
しかし、この努力型メリトクラシーがもたらす選抜システムには問題があります。才能や能力に甘んじない立身出世主義が、ささやかな地位を巡る競争やゼロサムゲームを助長し、個人的な目標追求を意味する「勉強」にマイナスイメージを与えることもあります。これは教育を志向する家族にも影響を与え、戦後60年代から拡大した高等教育や受験戦争などに見られる学歴主義が、社会的不安を引き起こし、努力や勤勉を苦行のように感じさせる要因となっています。
さらに、2000年代からは勉強努力主義の減退傾向が見られ、その結果、社会的階層によって努力する生徒とそうでない生徒の差が生まれています。文化的な資本が高い家庭の子供は学校で成功する可能性が高く、一方で学校化された文化資本の影響により、努力しない子供も出現します。この結果、勉強が階層差を埋め合わせるのではなく、むしろ階層差を助長する形になってしまっています。
そして近代日本を支えた勉強努力主義は二極化し、学校の中から少しずつ変容が見られてきています。社交能力など、家庭の文化資本が重要となり、多様性をもたらす新しい能力、言わば「ハイパーメリトクラシー」や「ポスト近代型」の能力が求められるようになってきています。これは「生きる力」を象徴する能力であり、柔軟に対応できる能力を指します。しかし、これらの能力を具体的にどのように身につけ、評価するかという基準は必ずしも明らかではありません。独創性やコミュニケーションといった能力をカリキュラムとして形式化することは難しく、近代型能力を乗り越えて新たなポスト近代型能力を育成する方法が求められています。
以上の変化を踏まえると、現在の日本社会はこれまでの文化的装置をどのように更新し、社会全体で努力主義をどのように評価し直すかという課題を抱えていると言えます。