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#スポーツ文化 🌍 19世紀のイギリス&日本(スポーツ・健康医科学第1回) #放送大学講義録

イギリスと日本の比較が面白かった。

 

-----講義録始め------

 

スポーツは、人々が生涯にわたり心身ともに健康で文化的な生活を営む上で不可欠なものと考えられています。スポーツ庁も2020年のオリンピックパラリンピックの先を含む5年間の指針で、スポーツに参画する人々が増え、国民1人1人がスポーツで人生が変わり、社会を変え、世界と繋がる未来を歌っています。私たちがスポーツと呼ぶ人間の行為、すなわち身体文化は、西洋、とりわけ19世紀のイギリスにその源を発しています。イギリスでは産業革命以降、スポーツはエリート層の人々のみが行う競技から、一般の人々が人生の楽しみとして行う身体文化に変化してきました。

 

スポーツ医学の歴史を考察すると、歴史的時代にはスポーツは宗教的儀式に関連していたことが分かります。紀元前のシュメール文明ではレスリングやボクシングが行われていました。また、中国やインドでは早くも紀元前2800年頃には呼吸体操法が行われていたと言われています。古代の医者ヒポクラテスは、散歩やランニング、乗馬、レスリングなどの運動が健康の保持や医療に重要であると考えていました。古代オリンピックではパンクラチオンという競技があり、これは目つきや噛み付きを除くあらゆる技が許される非常にハードな格闘技でした。

時代が進むと、医師たちが体操や医療体操の重要性を説いています。特に、運動は健康を保持する上で非常に重要であり、長時間座ったままの生活をしている人には特に運動が必要であると強調していました。

現代に入ると、スポーツは一部の特権階級だけのものではなく、多くの人々が楽しめるものとして認識されるようになりました。時計の発明などの進化により、スポーツは競技性が高まり、記録や結果を追求する文化が形成されました。しかし、日本においては「スポーツ=厳しいトレーニング」のような認識が根付いており、その考え方は学校体育や課外活動などの場でも色濃く反映されています。また、スポーツの語源には「気晴らしする」という意味が含まれており、過酷な日常からの一時的な解放を意味しています。

ヨハン・ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」では、遊びとしてのスポーツの意味や文化的側面に焦点を当てています。しかし、現代のスポーツが19世紀のイギリスで形成された「フェアプレイ」の精神をどれだけ継承しているのかという疑問も提起されています。ウェブレンの「有閑階級の理論」では、社会の上層階級がスポーツをどのように楽しんでいるのか、その背景や意味合いについて詳しく解説しています。

スポーツの歴史を探ると、昔のスポーツは貴族や有閑階級のものとして行われていました。ヨーロッパや日本の封建時代においても、スポーツは特定の上層階級によって行われていたことが一般的でした。しかしながら、体を動かすことや運動を嫌う文化も存在していました。例えば、戦前の中国では、体を動かしてスポーツを楽しむことの意味が理解されていなかったというエピソードが紹介されています。

「アマチュア」という言葉も、スポーツの背景を理解する上で重要です。アマチュアは元々「プロフェッショナル」に対する言葉として使用されており、プロフェッショナルではない一般の参加者を指していました。しかし、1866年のロンドンアマチュア陸上競技クラブの規定によれば、アマチュアとは公的な資金や入場料を目的として競技に参加したことのない者、また、生涯で陸上競技の練習方法などの助言をしたことのない者を指すとされていました。

19世紀のイギリスでは、産業革命の影響で大きな社会変革が起こりました。多くの農民が土地を失い、都市に移住し、賃金労働者や浮浪者となりました。この時代、労働者は過酷な状況下で働かされており、機械化により無制限の労働が求められました。都市集中の結果、非衛生的なスラム地域が形成され、公衆衛生の問題が顕在化しました。特に、労働者階級の乳児死亡率は非常に高く、その生活環境の厳しさが窺えます。

この背景の中、教育としてのスポーツが注目されるようになりました。トーマス・アーノルドは、ラグビースクールの校長として、ジェントルマン育成のための教育理念を持ち、フットボールを奨励しました。産業革命後の社会の混乱の中で、職人などを対象としていたパブリックスクールは上中層階級の教育の場としての位置づけが変わり、スポーツがその教育方針の一部として取り入れられるようになりました。

19世紀のイギリスでは、産業革命の影響で大きな社会変革が起こりました。多くの農民が土地を失い、都市に移住し、賃金労働者や浮浪者となりました。この時代、労働者は過酷な状況下で働かされており、機械化により無制限の労働が求められました。都市集中の結果、非衛生的なスラム地域が形成され、公衆衛生の問題が顕在化しました。特に、労働者階級の乳児死亡率は非常に高く、その生活環境の厳しさが窺えます。

この背景の中、教育としてのスポーツが注目されるようになりました。トーマス・アーノルドは、ラグビースクールの校長として、ジェントルマン育成のための教育理念を持ち、フットボールを奨励しました。産業革命後の社会の混乱の中で、職人などを対象としていたパブリックスクールは上中層階級の教育の場としての位置づけが変わり、スポーツがその教育方針の一部として取り入れられるようになりました。

19世紀のイギリスのパブリックスクールにおいて、学生の貴族子弟と平民出身の教師との間に階級的な差別が存在しました。学生の自治や上級生による下級生の監督という形で、教師と学生との関係が再編されました。しかし、学内には差別的な風習が残り、それを解決するために、ラグビースクールのトーマス・アーノルド校長はフットボールを奨励しました。彼は、このスポーツを通じて学内に秩序と規律をもたらすことを目指しました。

近代オリンピックの提唱者であるクーベルタン男爵は、フランスのプロシア敗戦とその後の社会的混乱を経験しました。彼はイギリスのカレッジスポーツと出会い、スポーツを教育の一部として取り入れることの重要性を認識しました。彼はフランスの若者たちに新しい教育を提供し、スポーツを通じて社会を改革することを目指しました。クーベルタンは戦争よりもスポーツを通じた交流でヨーロッパの平和を実現しようと考えました。

ヨーロッパ各国による古代ギリシャの発掘が進み、オリンポスの祭典協議、古代オリンピックの実態が次第に明らかになってきました。祭典が行われるとき、各都市国家は戦争を休止していました。この思想に共鳴したクーベルタンは国際オリンピック委員会を設立し、オリンピック大会を開催してヨーロッパに平和をもたらそうと考えました。1896年にギリシャのアテネで第1回大会を開催しました。19世紀後半のヨーロッパは、産業革命の後遺症と帝国主義の影響を受けていました。クーベルタンはこの状況を変えるために近代オリンピックを創始しました。

イギリスが国力を増すにつれて、19世紀後半のイギリススポーツやアマチュアスポーツが普及しました。スポーツの体系化や組織化が進行し、スポーツの主要な担い手はパブリックスクールから中産階級へと移行しました。大英帝国は、文化やスポーツなどを世界に広め、その影響力を強めました。例えば、クリケットやラグビーなどのスポーツの組織本部は、通常イギリスの首都ロンドンに置かれました。

日本では、西洋からのスポーツの受容が進行しました。オリンピック精神や武士道的な精神が深く根付いており、その結果、日本はオリンピックにおいて多大な貢献を果たしてきました。また、日本は多くの横文字を漢字で訳し、その用語を取り入れることで、独自の文化や言語を発展させました。

武士階級の存在やその後の影響、日本のスポーツ活動における武士道精神や教員の役割など、多岐にわたるトピックが取り上げられています。近年、スポーツの意味や価値、その方向性についても多くの議論がなされており、地域に根差したスポーツ文化や伝統スポーツの再評価が求められています。