ーーーー講義録始めーーーー
アンドラゴジーをめぐる論点
さて、ノールズのアンドラゴジーに話を戻しますが、アンドラゴジーという考えをめぐっていくつか論点が提出されていますね。
堀先生:そうですね。ノールズのアンドラゴジーは成人学習の一面を的確に捉えており、成人学習の実践において、指導・支援の手がかり(実践原理)として参照されることが多いと言えます。
しかし、一方で、様々な疑問点や批判もあります。例えば、アンドラゴジーはいったい理論なのか、哲学、教授技法、学術的専門科目、機械的ツールや技法、あるいは成人が学ぶことを支援する、そうした方法だとか方略なのか。このことに関しては整理の仕方が複数あり、統一見解(単一の定義)に収斂していない、という指摘があるわけです。理論なのか方法なのかっていうことですね。
アンドラゴジーは、識字教室、余暇活動、継続専門教育、高等教育、企業研修に至るまで、成人が学習するあらゆる現場で、実践家の直感に訴え、指針として用いられやすい力はあります。けれど、研究者はそれぞれの立場から、アンドラゴジーを批判的に検討してきました。
主な批判点
例えばどのようなことが挙げられますか。
堀先生:大きな論点として挙げられますのは、アンドラゴジーは厳密な意味での実証的理論としては位置づけにくい、という批判ですね。アンドラゴジーは、場合によっては理論であったり、技法であったり、方法であったり、原理であったりと、さまざまなレベルの要素が束になって扱われ、立場によって分類や表現が揺れやすい、という点が指摘されてきました。
特に、アンドラゴジーが実証的理論でないとする批判は、アンドラゴジーが実践上「うまくいく」とされる原理の記述にとどまり、操作的に定義して検証する枠組みや、経験的裏づけが十分ではないのではないか、という論点に関わります。
また、前提とする自己決定性につきましても、大人の全てが必ずしも自己決定的ではないということも事実ですね。あるいは、大人は自己決定的であるのか、あるべきなのか、どっちなんだという、この点が曖昧だという批判もあります。
成人学習においては、自己というよりも、家族、地域社会、公民教育などの場における仲間との相互作用や集団での学習が重要ではないか、すなわち個人学習者に焦点化しすぎて社会歴史的文脈を見落としがちではないか、そういう批判もあります。
あと、これは結局、学習理論なのか教育理論なのか、どっちだ、こういった批判もあるんですね。
具体的な問題点
確かにそうですね。そのほかにも、アンドラゴジーを掲げることで、成人教育を「独自の専門領域」として打ち出す方向が強まり、その結果として一般的な教育研究や学習研究との接続が弱まるのではないか、といった懸念が述べられることもあると言われています。
あるいは、ノールズはペダゴジーとアンドラゴジーというものを、その2つを対立的に論じるわけですが、実際には子どもにも成人にも当てはまることがあるという批判もあります。
例えば、子どもでも自己決定的に行動することができる者もいますし、一方、大人でも依存的な者もいるわけです。経験についても、子どもであっても、大人以上に学習資源となり得る貴重な経験をする場合もあるでしょう。
このように、必ずしもペダゴジーとアンドラゴジーは、相対する概念ではないとする指摘です。
ノールズ自身の認識
そうですね。ノールズ自身も後で指摘してますように、子どもの教育の現場である小中学校、高等学校や大学においても、学習者が尊重、信頼されているような雰囲気の中で、アンドラゴジーの要素を取り込むことが有効な場合があること、あるいは、大人にとって完全に未知な内容を学ぶ場合には、ペダゴジーモデルが有効な場合もあることを述べています。
つまり、子どもにとってアンドラゴジーが有効な場合もあれば、大人にとってペダゴジーが有効な場合もあるということなんですね。
ノールズが言うには、学校教育のカリキュラム改革を見てみますと、生徒の関心事から出発して自己決定的な発見のプロセスに生徒を関わらせるようなアプローチが認められ、このような学校教育における包括的な考え方と新しい技術によって、これからの子どもたちは生涯にわたる継続的な自己開発のプロセスに関わることができる、そういう大人になっているということなんです。
このように子どもも成人も連続しており、必ずしも機械的に2分できるというものではない。このことにノールズも気付いております。
アンドラゴジーの意義
しかし、やはり課題や批判があるとしても、ノールズは子どもの学習と大人の学習の違いを(少なくとも当初は対比的に)体系化して示し、成人学習を考えるための1つのモデル(前提の枠組み)を提示したということは重要だ、という評価はできるでしょうね。
堀先生:それは確かにそう言えるでしょうね。
