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戦艦大和はなぜ呉で造られたか|海軍軍縮と航空兵力の発展 #放送大学講義録(日本政治外交史第8回その8)

【要約】

 

軍縮下で艦種ごとの競争が続いた。海軍は航空戦力を強化する一方、呉では1937年から大和の建造を進めた。

 

ーーーー講義録始めーーーー

 

(映像の区切り) (以下、映像より)

(広島県呉市に来ています) 広島県呉市に来ています。海軍工廠や鎮守府が置かれるなど、呉が海軍ゆかりの町であることは、先の講義でも触れました。私が来ているのは、先の映像でもご紹介した「歴史の見える丘」という場所で、戦前の呉海軍工廠の跡地で操業している造船所が見える場所です。

(第一次世界大戦後 ワシントン海軍軍縮条) 第一次世界大戦後、ワシントン海軍軍縮条約が締結され、戦艦の建造が厳しい制約を受けることになりました。これ以降、世界は「Naval Holiday(海軍の休日)」、海軍の休日と呼ばれる軍縮時代に入りました。まあしかし、戦艦の建造が制限されたがゆえに、巡洋艦など条約の制限が十分及ばない艦種をめぐって建艦競争が続くことになりました。日本も空母や巡洋艦、あるいは潜水艦等の建造を推進しまして、高度な技術を持つに至ります。例えば、真珠湾攻撃に参加した空母6隻のうち2隻、赤城は呉海軍工廠で巡洋戦艦として起工され、建造途中で空母に変更されました。蒼龍も呉海軍工廠で建造されました、呉は戦前期の海軍の艦艇建造で中心的な役割を果たしました。

(1927年には 海軍航空本部が設置され) 1927年には、海軍航空本部が設置されました。航空兵力の充実が図られたわけです。この時期、日本海軍の中で航空兵力の価値を最も見抜いていた一人が、真珠湾攻撃の際に連合艦隊司令長官を務めた山本五十六でした。山本五十六は、1920年代から30年代に海軍が航空兵力の充実を図る中で、霞ヶ浦航空隊の副長、空母赤城の艦長、それから海軍航空本部の本部長を歴任し、航空兵力の充実に尽力しました。また、海軍は零戦(ゼロ戦)と呼ばれる当時、高い性能を示した戦闘機の開発も行いました。

(ただ一方で 当時の海軍は大艦巨砲主義の) ただ一方で、当時の海軍は大艦巨砲主義の時代であり、戦艦の役割というのもまだ失われてはいませんでした。この呉の海軍工廠では、1937年から、当時世界最大の戦艦、大和が建造されています。これから、その大和が建造された旧海軍工廠跡に行ってみたいと思います。