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各論4・街道から鉄道へ-交通から見た政治思想(日本政治思想史第7回)

鉄道網と支配との関係が興味深い。

 

オランダ船と中国船。朝鮮や琉球からも使節。外国人が街道を。ケンペル。医師として出島に滞在。江戸に参府。街道について。17世紀の段階で。左右方向の規則。日本橋を起点に。首都からどれほど離れているかを知ることが出来る。街道網。分権的政治体制だったが、まるで近代の国民国家を先取りする一元的なシステムが出来ていた。家康から家光にかけて繰り返された上洛。東海道や中山道。街道の整備。五街道。幕府の直轄。参勤交代の制度化。日光東照宮。定期的往復。1万石以上、藩。江戸時代に使われていたわけではない。二百数十。大名が行列を組み街道を経由し江戸へ。ソウル漢城から通信使。琉球王国の首里から派遣される。オランダ商館の。江戸時代は行列の時代。政治的首都の存在。京都にいる天皇は?初期には存在感を。相次いて上洛。征夷大将軍の為の勅許。4代目からは京都には行かなくなる。大政委任論。論理的には天皇が上に立つ。国学。本居宣長。朝鮮通信使。全部で12回。1605年に講和が成立。ソウルから江戸へ。釜山から海路で京都へ。朝鮮と日本の街道の風景は全く違う。韓国ではしばしば妨害される。日本では沈黙を保っている。道を犯す者はいない。秩序。参勤交代に由来。最大2000人。多くの場合大名は籠に。籠の豪華さ、行列の長さ。支配の道具。街道が政治空間に。34年の家光の上洛、30万人の大群。東海道を埋め尽くす。1776年の日光。20もの大名が従う。江戸から日光へ一続き。言説化はされていない。脆い支配。14代が将軍として上洛。家持。将軍が天皇の行列に従う。天皇を中心とする視覚的支配。
明治への変化。初期や末期の上洛を除き将軍は動かない。明治になると天皇自身がしばしば外出。北海道から九州まで。当初は軍艦。馬車。街道網の活用。馬車は明治に登場。しかし普及の前に鉄道の敷設。72年10月。新橋横浜間の鉄道開業。開業式に明治天皇が臨席。推進する主体。仮開業の時に横浜から品川まで乗っている。横浜の県庁に7時間も待ち続ける。お召列車よりも通常の列車を優先させる。太陽暦。73年1月1日。しかしその前に鉄道では太陽暦が導入されていた。イギリスの指導を受ける。ダイヤグラムの作成にお雇い外国人が関わっていた。明治中期までには北海道から九州まで鉄道の建設が進む。1906年。鉄道国有法。主な私鉄が買収をされる。官設国有鉄道。街道の時代から鉄道の時代へ。天皇が馬車に乗る時代は長続きしなかった。77年。京都神戸間の開業式に臨席。京都神戸間を往復。既にお召し列車がとって変わる。視覚的支配が受け継がれる。天皇や皇后が行幸をする時は、お召し列車の時刻が知らされる。ダイヤグラムに人々が動かされる。時間支配。90年3月から4月。愛知県や兵庫県。新橋から神戸まで鉄道に。行幸が定例化。皇后が同行する行幸啓。当時の東海道本線は殆ど単線。上り列車といつすれ違うか?到着時間が新聞に掲載。地元の人が集まる。プラットフォームに一斉に集まる。大掛かりな時間支配。大正4年。大正天皇のお召し列車。寸分の狂いもなく列車が走る。江戸時代は旧暦。明治は太陽暦へ。中国では旧正月、春節。太陽暦的なものがスムーズに。鉄道は一元的な中心を初めから持っていた訳ではない。東海道本線の起点は新橋。日本鉄道の起点は上野。総武鉄道は現在の両国。甲武鉄道は飯田町。ターミナルは東京では分散していた。ロンドンやパリに近い。明治天皇も使い分けていた。一元的なターミナルを作る。中央停車場計画。1914年に完成。現在の東京駅。2012年に駅舎の復元。中央口は皇室専用。天皇の為の駅。江戸時代の日本橋に代わる一元的なターミナル。全国の鉄道が上り下りに。東京からの正確な距離。国学を踏襲、自国中心的。32年に成立する満州国も。首都は新京にも関わらず、東京を中心とした鉄道網に組み込まれる。東京中心の鉄道網は現在も維持されている。東京と繋がらないローカル線は廃止される。

 

日本政治思想史 (放送大学教材)

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