F-nameのブログ

はてなダイアリーから移行し、更に独自ドメイン化しました。

明治維新と地域社会(日本の近現代第2回)

歴史の流れを大づかみにする必要がある。固有名詞に囚われないこと。

 

明治維新。近代化の契機。天皇の軍隊に歯向かう。幕末維新期の動乱。突然降ってくるルールに反発と受容を。変化をどのように受け入れたか。様々な明治維新。西南戦争まで。66年の第2次長州戦争。長州征討。幕府側の失敗。倒幕勢力との緊張。67年、慶応3年。薩摩藩や長州藩に密勅。大政奉還。幕府の支配は形式的には無くなったが。依然として最有力の大名だった。12月9日。王政復古の大号令。徳川慶喜を排除。クーデタ。公議。薩摩藩の裏工作。幕府への挑発活動。品川の薩摩藩邸を焼き討ち。鳥羽伏見の戦い。69年5月、榎本武揚の降伏までの戊辰戦争。戊辰戦争によって最終的に解体するが、新政権の地盤が固まった訳ではない。国家構想が共有されていたわけではない。諸藩の関わりは様々だった。「ある明治人の記録」。柴五郎。会津の落城。過酷な命運。69年12月に斗南藩に多くの藩士が移住。餓死凍死を免れるのが精一杯。過去もなく未来もなく。明日の死を待ちて今日を生きるのはどんなに楽あろう。会津の国辱を濯ぐまでは「生きてあれよ。」黙々と縄なうばかり。会津藩は貨幣を大量に作り経済は混乱。一揆が頻発。民衆の様々な維新体験。
中央の政府と地方の関係。廃藩置県。藩から県へ。政治過程。江戸城の無血開城ああってからの68年4月、太政官に権力集中。直轄地である県が。藩は依然として旧大名藩主の管轄。財政問題が深刻。全国3000万石。2200万国は旧藩の管轄。奥羽列藩同盟などは更に財政が悪化。中小の藩には破綻状態も少なくなかった。4藩の藩主が版籍奉還が上程。断行されたのは6月11日。天皇の土地。天皇の人民。知藩事。藩の軍隊もなくならなかった。藩の解体。一揆の頻発と攘夷派。草莽の臣に。政府の開明的な政策に反対。長州藩では奇兵隊を解体しようとしたが、大規模な暴動に。木戸孝允は徹底的に弾圧。藩と府県の並立。攘夷派。奇兵隊の再編。藩は自ら解体し始める。71年7月。在る種のクーデター。7月14日。4人の藩知事は朝廷に呼び出される。廃藩置県の画策。7月14日、廃藩置県の勅語。3府302県に。廃藩置県は藩の投げ出しや公儀口論。戊辰戦争から激しい政治闘争がクーデターで帰結。
廃藩置県。地方の新たな枠組。地域社会の一般民衆にとって。近代化政策の受け止め方。戊辰戦争からの変化。一揆。経済の混乱と制度の変化への不安。69年は天候不順で凶作。大規模な騒擾や一揆が続発。廃藩置県に際して旧藩主の東京移住を義務にしたが、引き止めのための一揆も。解放令。廃仏毀釈などの政策への反対。新政反対一揆。73年から74年がピーク。参加者10万人の、1500の町を焼いた筑前竹槍一揆。干ばつの下で雨乞いをしていた者の争いが発端。筑前地方のほぼ一体に。処分は4人の死刑を含め、6万4千人に。安定していた日常世界が壊される不安が。文明開化を飲み込む。請求な近代化政策。日常の意識に入り込み、なんとも言えぬ不安を。地域住民にとり唯一可能なものが一揆。必ずしも胸がスッとするものではなく。敵味方に別れた者がどのように?士族の不満は一層されず。政権は危うい均衡の上に。動揺を見せたのは73年、征韓論。71年に岩倉使節団が欧米に。留守政府。西郷隆盛を派遣するのが決定していたが、中止となる。3人の参議が辞職、士族反乱が続発。74年江藤新平などが佐賀の乱。76年熊本で神風連の乱。福岡県で秋月の乱、萩の乱。いずれも短期間で鎮圧。77年の西南戦争。士族反乱。多くの考察が。躊躇いがちな士族層の態度。西南戦争。西郷隆盛も決断。2月15日に鹿児島を出発。熊本城を包囲。石水万聖。間近に目的。城下が鎮台との対立で。父が児玉源太郎と面会。陸軍の将軍たち。鎮撫使。どちらにも敬意を払う態度は不思議だが、珍しくなかったかもしれない。石水万聖は西郷軍びいきだった。「城下の城」。見物に来れば帰れと言われた。お城が焼けてしまった。大砲隊。薩摩の将校。熊本城下の人にとり戦争は身近なものだった。旧幕府時代のわだかまりが消えた。和解の手法。柴五郎にとっては会津雪辱の日。

 

日本の近現代―交差する人々と地域 (放送大学教材)

日本の近現代―交差する人々と地域 (放送大学教材)