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選択される命(死生学のフィールド第5回)

経済環境で子供の数を制限しなければならない時代はそんなに過去の話ではないことを改めて感じる。

 

鈴木由利子。選択される命。子供の死の問題を民族学の立場から。胎児に対する。70年代に至るまで堕胎や間引き。人工妊娠中絶。人の命をみなさなかった。確かな命を感じる時代に。供養されるように。子供の誕生と命の洗濯。人為的に命を絶たれた子供。人々の認識。かつての胎児観を。胎児生命と胎児供養。48年に人工妊娠中絶が認可される。合法的に子供の命を抑制。認識されることはなかった。医療技術の進展で映像が確認されるようになり認識や供養が。確かな命を感じる時代への変化を。
子供の誕生と命の選択。祝福されて誕生する子供や歓迎されない子供。過去には堕胎や間引き、人工妊娠中絶で絶たれてきた。両極端の運命を。産む産まないの選択。生存の権利が保障されるか。安産祈願。ご利益がある神社仏閣は大安の日には賑わう。誕生儀礼が順次。周囲の人の助力を。人間社会の一員として、産育儀礼。産湯。単に産まれたばかりの赤ん坊の魂が禊を。承認。名付け。儀礼の意味を含む。子供期において成長の節目に。確かなものとして定着。産まれる以前から儀礼を。産まれることを望まない子供。承認の必要がなく儀礼はない。ときには人為的に命を絶たれる。儀礼の内におかれた子供は簡単ながら葬送儀礼が。
堕胎間引きと子供の命。妊娠中に絶つ行為。明治期に堕胎罪で処罰の対象に。間引き。明治期に公には嬰児殺しとされる。近代化の中で見られなくなるが、密かに行われていた。48年に人工妊娠中絶が認可。子供の数の抑制。柳田国男。当時の体験を58年に「故郷70年」を。朗読。どの家も男児と女児の2人しか。酷い飢饉に。人工妊娠中絶の方式ではなくもっと露骨な。周辺では1家族に2人兄弟のみ。間引きや堕胎が露骨に。医師に人々が訪れる。堕胎罪の制定はあったが医師の死亡診断書が必要だった。間引き絵馬。産褥の女が出産したばかりの子供を押さえつける。寒いような心に。絵馬には母親が生んだばかりの子供を抑え命を絶つ。鬼の姿や地蔵。現在も利根町に保存。現在北関東から東北南部に複数絵馬が。近世末から明治20年代に奉納。例として宮城県内の堕胎戒めの絵と間引き絵馬。1864年に住職により。絵馬には赤ん坊を圧殺している様子。頭には角が。絵の上部には涙を流す観音。文殊菩薩。間引き行為を改めさせる文章も。絵馬に添えられた文章。生活苦などで。罪悪と考えることはなかった。鳥や獣も子を守ろうとするのに故意に絶ってしまうのは心得違いと。子供の数を制限する手段として間引きが。我が子を殺すとは考えない。近世中期に。絵には堕胎の悲惨な様子が。産婆。器具。バラバラにされた胎児。地獄の鬼も描かれる。罪深い行為であると。堕胎の罪を自覚させる。供養というより罪を自覚させ教化することを目的に。人々の欲求が強かった。容認された背景。生殺与奪権が家族にあると考えられ周囲も容認。親やその関係者に正当な理由があれば近親者が命を絶つのに寛容な社会。自宅で出産がされた昭和初期。障害がある子どもを死産として。判断は家族も容認。公的な福祉が整っていない時代には自立ができない子供は負担に。同じ地域に暮らす産婆や助産婦は死産の判断を。生殺与奪権が執行。無事に誕生し育つには近親者の意思決定が。価値観を照らし合わせ。
子供の魂の問題。間引きという言葉。育ちの良い芽以外を間引く。地域により良い方は異なる。どれも返す戻すという意味を含む。産まれる前の世界に。必要ない魂を返す。堕胎も魂を何処かに。出産直後に口や鼻を抑える。産声を上げたら間引かないことが多かった。産声が。肺呼吸が始まった時に。呼吸をしだす。現在のように病院だと肺を満たす廃液を吸い出す措置が。自宅出産の時代には待つことが多かった。赤ん坊が肺呼吸を開始するまでの時間が長かった。境界領域の時間。産まれては居るが生き始める前に。殺すことではなく魂を返す。
胎児観。胎児生命と胎児供養。人工妊娠中絶の受容と胎児供養の始まり。49年以降は経済的理由も認められる。中絶の届け出は急増。中絶天国。抵抗なく受け入れる。主に既婚者。2、3人を充実した教育に。55年には117万件と最高値。出産は173万人。40年代末から50年代に体験者が取ってもらったと。我が子の命を絶つことという意識が薄かった。医師や助産婦や胎児の遺体の処理を担った胎盤処理の人間は命を認識していて供養を行った。供養の主催者。認可直後は具体的月数の規定は無かった。早産で出生した子供が生きることができない時期であるのみ。生きて産まれたりすることも。最も早く供養する責任を。団体により様々な名称で。医学の進歩で具体的月数も規定され変更。現在は22週以前。
水子供養の萌芽。60年代から。命を大切にする運動。一般の人の寄付を募り65年に子育て命の地蔵尊が。地蔵の写真。今も1年1回供養が。水子地蔵の萌芽。中絶された胎児だけでなく不慮の事故での子供も。広く知られるまでに至らない。契機は71年に埼玉県に専門の寺の開山。協賛者の1人。地蔵寺では水子供養として地蔵像を安置。供養することの必要性を。法要供養を。境内に広大な地蔵の設置場所を。中絶した我が子の命と重ねる。メディアでも紹介され他の寺院でも。70年代末からTVで水子の祟と共に中絶を問題視。中絶認可後に全盛期に中絶した人。我が子の供養を体験者自身が。80年代にかけて急速に広まる。
水子供養が流行した背景。超音波探傷。胎児を目で確認。受精卵の映像や人工授精の話題が日常的に。70年前後から堕胎児の出産が。83年に日本初の体外受精児が。母体内の胎児の様子が。胎児を我が子の命とする認識を。自身が中絶した胎児にも罪悪感を。水子供養へと向かわせる。胎児に命を感じさせる状態。中絶したことで贖罪の気持ち。人間らしさを。積極的治療効果。
現在の水子供養。多くの寺院で。境内には水子観音像などが。病気や事故で亡くなった子供にも。誕生を阻まれた魂は再び誕生する。水子は孫世代に不幸をもたらす。3世代が揃って。血縁のつながりの中で世代を越えて。生殖補助医療の不妊治療。13年の総治療数は37万件。出生数は4万件以上。成功率は高くなるほど低くなる。出生前診断で異常があると9割以上が中絶を。選び取られる子供。小さな遺骨を。現場はその時代の子供を。
堕胎間引きの時代から合法的に中絶。抑制の方法は変化。胎児を命とみなす感覚は希薄。誕生を望む子供と望まない子供。供養の対象としない時代が長かった。体験者自身の供養。70年代末になると流行が。胎児生命の認識。不妊治療の過程で。子供の命は常に選び取られてきた。

 

死生学のフィールド (放送大学教材)

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  • 作者:石丸 昌彦,山崎 浩司
  • 出版社/メーカー: 放送大学教育振興会
  • 発売日: 2018/03/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

日本民俗学 224号 (平成12年11月)

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