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徳川政治体制のとらえ方 -朝鮮と比較して(日本政治思想史第4回)#放送大学講義録

今年の大河ドラマは徳川家康が主役。どのように徳川政治体制が築かれるかも見物。

 

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-----講義録始め-----

 

徳川政治体制のとらえ方 -朝鮮と比較して

徳川時代の日本と朝鮮王朝は、政治体制や儒学の取り扱いにおいて顕著な違いを持っていた。まず、朱子学という儒学の一派について考えると、この学問は徳川体制の基盤とはならなかった。これは朝鮮王朝とは対照的で、朝鮮では朱子学が支配的なイデオロギーとして確立していた。

徳川体制は分権的な性格を持ち、多くの大名が地方を支配していた。一方、朝鮮王朝は中央集権的で、国王が直接民と結びつく形で統治していた。さらに、徳川日本には科挙という官僚を選ぶ試験制度が存在しなかったのに対し、朝鮮王朝では科挙が行われていた。

綱吉や新井白石、吉宗などの指導者や学者たちは、朱子学に基づく考えを否定し、日本独自の儒学、例えば徂徠学などが次第に台頭してきた。この流れは、日本が朝鮮や中国とは異なる独自の文化や政治体制を築いていたことを示している。

江戸時代の「鎖国」という政策に関しても、実際には朝鮮通信使という外交使節が日本に派遣されており、東海道や中山道を通って行幸が行われていた。これは、国王や将軍が王陵への参拝を目的として民との接触の機会を増やすためのものであった。特に、直訴の許容という政策は、民の声を直接聞くためのものであり、儒学の民権主義の影響を受けていた。

参勤交代という制度も、大名や武士の主従関係を強化する儀礼としての側面があり、権威を見せるパフォーマンスとしての役割も果たしていた。しかし、将軍自身は江戸城からあまり出てこず、その姿を見ることができる機会は限られていた。

徳川時代後期には、体制の矛盾や弛緩が顕著になり、政治家や学者たちがこれを指摘するようになった。荻生徂徠や本居宣長などの学者は、上下のコミュニケーションの不足や体制の問題点を批判していたが、実際の政治改革には至らなかった。

ペリーの来航後、徳川体制は急速に瓦解し、明治維新が起こる。この過程で、徳川時代の大奥や将軍の正室の権力が排除され、新たに天皇が国の主体として位置づけられた。これに伴い、皇后という新しい役職も登場し、天皇制の確立に寄与した。

このように、徳川時代の日本と朝鮮王朝は、政治体制や儒学の取り扱い、外交政策など多くの点で異なる特徴を持っていた。それぞれの背景や歴史的経緯を理解することで、両国の文化や政治の違いを深く理解することができる。