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コレラの歴史と疫学の進展(感染症と生体防御第1回)#放送大学講義録

ーーーー講義録始めーーーー

 

コレラの世界的流行とその歴史的影響

コレラは世界的に流行する感染症の一つであり、コレラ菌(Vibrio cholerae)が原因で発生します。コレラの大流行は1817年から始まった第一次パンデミックを皮切りに、1899年までに計6回の世界規模のパンデミックが発生しました。これらの流行はいずれもインドのガンジス川流域、特にベンガル地方から始まり、世界中で数百万人の死者を出しました。イギリスにおけるコレラ対策は、公衆衛生学や疫学の基礎を築く重要な役割を果たしました。

1826年頃から始まった第二次パンデミックは、アジアを超えて北アフリカやヨーロッパに広がりました。1831年にはイギリスでも大流行し、産業革命に伴い都市部の労働者が多いロンドンでは労働者階級を中心に5,000人以上が死亡しました。

さらに、1842年から始まった第三次パンデミックは1849年にはイギリスにまで及び、イギリス国内では50,000人の死者を出しました。この大流行の際、麻酔科医であったジョン・スノウ(John Snow)は、ロンドン市の患者発生地域と当時のロンドン市の上水道を調査し、1854年に汚染されていると疑われた井戸「ブロードストリートポンプ」の使用を禁じることで、患者の発生を抑制しました。これは、ロベルト・コッホがコレラ菌(Vibrio cholerae)がコレラの原因であることを発見する約30年前の出来事でした。ジョン・スノウのこの業績は疫学の原点とされ、近代疫学の発展に大きく貢献しました。スノウは、死者が発生した家の場所と井戸、ポンプを示した地図を作成し、その有効性を証明しました。

日本におけるコレラの流行も歴史的に重要です。アジアでのコレラの大流行が及んでいた時期、当初日本は鎖国政策を採っていたため国内での大流行はありませんでした。しかし、外国船の来航が増加し、幕末から明治にかけて国内での人の往来が増えるにつれ、コレラも流行するようになりました。日本で最初に記録されたコレラの大流行は1822年(文政5年)であり、大阪などで流行しました。以後、1858年(安政5年)、1862年(文久2年)にも流行が記録されています。1858年には鎖国が解かれ、外国人の往来が増加したことがコレラの国内流行に拍車をかけました。コレラは発症すると数日で死亡することから「コロリ」とも呼ばれました。

19世紀末から20世紀初頭にかけて、日本では北里柴三郎(きたざと しばさぶろう)博士がコレラやペストの原因究明と感染予防に尽力しました。北里博士は、フランス人細菌学者アレクサンドル・イエルセン(Alexandre Yersin)とともに、ペスト菌(Yersinia pestis)の特定に貢献し、日本における感染症研究の先駆者として知られています。また、北里博士の研究は感染症対策の基礎を築きました。