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自然美と芸術美(美学・芸術学研究第4回)

無限性を感じ取れる人間はもっと広大なものではないかという気もする。

 

最高に素晴らしいもの。自然美。ギリシア。アテネ近くの岬。ポセイドーンの神。海の神。大地を揺さぶる地震の神。エーデ海の夕陽。素晴らしい景色。スイスの鉄道。展望台。山岳ホテル。4泊した。3泊は雪。午前2時頃に雪は止んでいて、大気中の塵芥が綺麗に洗い落とされて、クリアーな夜空が。ものすごい数の星。雪の鋭角の山々が取り囲む。鋭角の水平のところまで星が。山の線で区切られる。星の奔流。今日は素晴らしい自然美を。
ドイツ観念論のヘーゲル。美学講義。芸術美は精神から生まれたから自然美よりも高尚である。およそ精神的なものは自然より優れている。主観主義の観念論哲学を表現。人間中心主義。ヘーゲル美学によると自然美は否定される。ドイツ観念論の中にも違う人は居るが。西洋と東洋を比較。西洋は自然を征服する。東洋は自然と共存する。東洋的自然観は大事。西洋は人間が征服する対象としてしか見ていないのは、デカルト以降の話。デカルト以降の近代西洋はそうだが。人間中心主義。デカルト以前の西洋はそうではない。もっと自然を尊重していた。プラトン。自然の産物。神の技術による。自然は神が作ったものである。国家の中で三段階論。国家において自然というものは真実。イデアのミーミーシス。美のイデアをもとにして。美のイデアのミーミーシス。自然を模倣。自然よりも芸術の方がイデアから遠い。自然美の方が芸術より上。何も芸術そのものは悪ということではないが。自然と芸術とではプラトンにおいても自然美の方が上。人間が作る芸術よりも。芸術否定論ではないが。アリストテレス。実は美を語る時にも、動物などの自然物について多くを語っている。自然美との比較において芸術を語る。高度な生物学者でもあった。自然の方が格上。自然における生物の美。アリストテレス哲学において自然とは?自ら力動的に動いていく自然。デカルトの語った延長としての自然ではない。人間が切り刻むような。近代哲学の自然観の結果として、人間が切り刻んでも良いということになった。切り刻まれるモノとしてではなく、生き生きとした自ら動くもの。巨人哲学者に共通。デカルト以前の西洋。
自然美については?山岳美。山という自然をどう考えるか。東洋でも西洋でも山は神々しい。悪魔も神も、霊峰。西洋ではギリシア世界においては山というものは格の高いものとして考えられていた。ローマ世界では格の低いものだった。近づくべきでないものだった。山を嫌悪する。キリスト教の世界。高きものを嫌悪。ヨーロッパにおいてキリスト教は長らく支配的だった。信じられてきた時代は山は評価されなかった。その中にあって、ルネサンス期に。ペトラルカが山を再発見した。中世期は山を良くないと考えていたが。山の美を意識して山を登る。著しく高いところへ。山頂に辿り着く。雄大な光景。白い岩石。ルネサンスでの山岳美の再発見。アウグスティヌスの告白を手に取る。自然を驚嘆しに出かけて自分をおざなりにする。著作を読んだだけで自分自身を恥じてしまう。自己否定。キリスト教の力が強かった。もっと自分自身の内面を、宗教家として。反省するまでは山岳美の再発見をした詩人として。17世紀に変化。イギリス。無限社会の宇宙に対する美。眼前の広大な風景。自然のままの物事に対して、自分を押さえつけようとはしない。抑圧的な感情を抱くことは止める。芸術作品は大いなるものにはなれない。大いなるものはもちろん自然。トマス・グレイ。イタリアへのグランドツアー。教養の最後の段階に芸術作品に触れる。芸術作品を見に行ったが、自然に心を驚かせている。芸術は色々見たけど。ヨーロッパ人においても自然美を受け入れるように。山岳美はヨーロッパの知識人にも素晴らしいものとして評価される。
廃墟の美。廃墟は自然と人間の合作。昔の建築作品。時間が経つにつれて少しずつ崩れて廃墟になる。単にみすぼらしいものではなく、崩れても素晴らしい美を。崩れ方は自然が関与している。自然がダメージを与えて壊す。自然の営みと人間の営みの合作行為。素晴らしいもの。芸術と自然美の合体。ポセイドーン神殿。まさに廃墟。柱が残っているだけ。昔の素晴らしい芸術作品が崩れている廃墟の佇まい。廃墟の美も自然美も。
無限性の美学。無限世界との合一。自然に接する場合。自然を芸術的に見る。絵のように美しいと見る。感動の度合い。せっかく美しい自然を見ながら、芸術作品を見ているように見ている。その人のこれまでの芸術経験の枠内でしか捉えない。本当は勿体無い。芸術の枠を超える存在。自然美が芸術美より格が上、素晴らしいもの。キリスト教の伝統から抜け出れば。自然美。芸術経験の枠内で捉えるのとは違う。自然を自然的に見る。自然をその本質について捉える。自然の本質は無限性。限りがない。芸術は人間が作り、人間は有限の存在。数には限りが。神のような存在のミケランジェロでさえも、自然のような無限性は表現できない。人間としての限界。自然は限界を帯びない。自然は人間よりはるかに大きい。自然とは宇宙すべてを。宇宙は本当に無限。仮にビックバンから誕生したとしても、現在の宇宙は微小な人間の上に存在。宇宙はすごく広大にして無限。アポロンの仕事。宇宙に何もない、真っ暗闇でしか無い。大気の影響を受けずに綺麗に。何十回も地球を周りながら写真を撮る。実に驚くべきもの。ハッブルで見てみると一万個の銀河が。ほんの小さいところに存在。そのくらい宇宙は大きい。人間にとり無限と言って良い。ものすごい星の奔流、ものすごい力、宇宙の無限性を目の当たりにして。人間世界のちっぽけなものとは違う。自分と無限との直結。無限世界との合一の感動。無限世界に包まれる感動。小さな人間の世界を超えて、至福の感動を。自然美を。ドイツ観念論、自我を拡張して世界に広げるという傲慢無礼なことではない。没我の境地、没我の幸福。無限という自然美。人間的なるものを抱えるのと対照的。芸術美が人間的なものだけど、人間生活の様々なものが全て詰まっているけれど、自然美は人間的なものを超えた無限美。人間から離れることは出来ないし、人間が作り出す芸術などの事物全てにに感動することも出来るけれど。人間生活を超えたものが自分を動かす感動。芸術は素晴らしいものだけど、それに並んで自然美の素晴らしさ、至福の幸福を。
各々どちらかを否定するのではなく。人間の本質に迫る美と無限性の美。様々な場面での経験を、自然の素晴らしさを。2つの違うものとして。無限世界と合一の美。

 

美学・芸術学研究 (放送大学大学院教材)

美学・芸術学研究 (放送大学大学院教材)