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日本仏教の思想2 -空海(日本仏教を捉え直す第3回)

かなり博識でスケールの大きい人物であったことが理解できる。評伝を読んでみたい。

 

頼住光子。平安仏教を築いた空海。最澄とともに。同じ船団で中国に。天台宗を最澄が。真言密教を空海は伝える。山奥で修行。官僧として鎮護国家の儀礼や学問修行に。最澄も空海も森羅で宗教的体験を。深い宗教体験にあった。特に空海を取り上げ曼荼羅的思考について。曼荼羅。悟りの境地を。整然と並べた図表。統合的ものの見方。
万能の天才という空海。774年に生まれ835年に死す。弘法大師と。互いに異なったものを繋ぎ統合する。統合は一方の排除ではなくより高次な位置づけを与えネットワーク化する。空海が讃岐国の出身であり各地の海浜や山岳で修行をして都で儀礼を行うと同時に高野山で修行する。都において新たな仏教の担い手として。辺境も瞑想も両方とも捨てることが出来なかった。共存する場所。往還を通じて目指したものは?生涯をたどりながら。
774年に今の善通寺市に。青年時代に上京して大学に入り儒教を。しかし次第に仏教に。19歳で中退。在家のまま戒律を保つ。自分で勝手に出家。仏教の出家は釈迦が家族を捨てて、内面的欲求に従って。中国では国家の許しが必要。日本も踏襲。官僧。得度した僧侶も私度僧として。24歳には儒教道教仏教を比較して対話形式で。三教指帰。欲望のままに快楽にふける。学問道徳を身に着けて官僚になり。儒教の立場。道教の立場。虚しい世俗を断ち切って神仙術を。死んでしまってはおしまい。最後に空海の自画像が。みすぼらしい姿で。孔子も老師も菩薩であり、卑近な例えをしているに過ぎない。仏教の基本教理を織り込んで。理想世界の中では神々などがそれぞれ仏を賛美している。あらゆるものが一体となって。仏教的な理想世界のビジョンを持っていた。山岳修行の中で直感し感得した。曼荼羅的世界をどのように意味づけ表現を与えて人々に伝えるか。様々な修行を。空海と最澄などが行った山林修行。早い時期から。山岳は古来から超越的存在が住む他界と考えられてきた。霊力を高め儀礼を。聖なる場所で修行を積んで日常的世界を超える。戻って人々を救う。伝来する早い時期から受容して山岳修験を。私度僧ではあったが根付かせるのに大きな役割を。20代を修行と仏教や語学の勉強に。その過程で密教の教えと出会い、唐に渡ることを志す。密教について。法身仏。真理そのものの仏。大日如来。小数の限られた者のために。4世紀からインドで。インドにおける仏教の歴史。源流は釈迦に。あらゆるものは無常無我。執着してはならない。苦からの脱却。原始仏教、初期仏教。その後教団が20ほどの部派に分かれる。部派仏教。紀元前後に大乗仏教が。展開の最後が密教。密教では儀礼として護摩が行われる。いわゆる護摩焚き。煩悩を焼き尽くす。仏菩薩や神々の諸天を招くために曼荼羅を作成。神々や仏菩薩。様々な明王などが含まれる。鬼神というのはすべて大日如来。雑多な要素を含む雑密に対して大乗仏教の。純密。空海が中国において純密を学んで初めて高度に体系化された密教が根付く。仏の慈悲が加わり仏性が目覚められ。入我我入。仏と私の一体性。様々な儀礼や手法により境地を実現。現世利益を。
空海は804年に留学僧として遣唐使に。最澄も行ったが面識はなかった。専用の通訳を。空海は無名の僧。サンスクリット語を習得して勝竜寺で密教の奥義を。恵果阿闍梨から密教を広めるようにと。帰国を決意し多くの経論を伴い各種の曼荼羅を集めて長安をたつ。神護寺を道場として。真言密教を広める。高野山に金剛峯寺を。山中高い高野山の下賜を願い出て許しを。海抜800メートルくらい。水本浄土の曼荼羅の実現を。深い山の中に平坦な地が。沢山のお寺が。823年に嵯峨天皇に東寺を託される。21体の仏像を配置。立体曼荼羅。鎮護国家のための儀礼を。高野山は瞑想などの修行を。得た法力を元に都において鎮護国家儀礼などを。自利利他の構想を持っていた。832年に高野山に。万燈万華会。四恩。父母衆生国王三宝の恩を重視。四恩の中でもけものなどの恩を主張して一体性を強調。仏教では無縁のものに対する慈悲を重視。同じく悟ろうとする。無縁の慈悲を。曼荼羅世界においては動物たちが場所を占める。835年に亡くなるまで菩薩行が続き。亡くなったあとも続くとされる。
目指したものは即身成仏と。利他行。即身成仏。三密修行。身口意。心を意味する。三密というのは仏の身口意の働きを。口にマントラ、真言を唱えて三昧に殉じる。仏と衆生は一体のものに。成仏を。仏として救済を行う。衆生強化。利他。空海の即身成仏の思想。

 

日本仏教を捉え直す (放送大学教材)

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