時代の制約という言葉が重くのしかかる。
岡典子。戦前の特殊教育の成立と展開。障害のある子どもの教育制度の昔のもの。発展を支えた人々。日本の特殊教育の歴史。明治維新から第2次世界大戦まで。3つに分けて。明治初期から前半。障害のある子供への重要性。障害児学級が。太正にかけて少しずつ広がる。昭和を迎え戦時体制の影響が。多くの困難があり停滞を。戦後の発展を支える礎の役割を。先人の願いや熱意は沢山の教えを。先人の足跡を。
障害のある子供の教育はいつ始まった?音楽を。琴。江戸時代初期の六段の調。八橋検校。視覚障害者。中世から近世にかけての日本。視覚障害者が自分たちで組織を作り厳格な徒弟制度のもとで。世界的にも珍しい。特に力を持っていたのが等銅座。視覚障害の男性だけで。針やあんま、三味線や琴を受け継ぐ。幕末期の寺子屋。障害のある子供も。江戸時代の日本人は民衆に至るまで大変に教育熱心。民衆の子供の中で関東地域では寺子屋には4割以上。聴覚障害や視覚障害、肢体不自由児も。様々な工夫を。各地域の寺子屋の内、1割に障害のある子どもが。学校教育とは異なるが、障害のある人への教育があった。
障害のある子供の学校教育。明治維新。重要政策として学校制度の整備を。72年には学制が。障害のある子供の学校もあれば望ましいと。学制に代わる第一次教育令。79年。盲学校聾学校の文言が草案に。実際には盛り込まれなかったが。中枢に認識している人間が居た。明治政府は激動の最中では考えが実際には反映されず。民間の努力で特殊教育が。盲唖学校。京都と東京。どちらも視覚障害者と聴覚障害者を。京都は古川が指導。障害のある子供に教育をしようとしたのは、視覚障害者も聴覚障害者も人であると。惻隠之心。孟子。相手の痛みを。哀れみの心。最初は京都府内の小学校と同様に基礎教育を。最初の内は指導方法について独自の創意工夫を。小学校と同じ科目を。保護者たちは職業の知識や技術を。あんま針音楽、絵画などの職業教育が。街を上げての支援が。10年後には3倍に増加。東京の盲唖学校。慈善事業としての。最初に設立のきっかけ。ヘンリーフォールズ。貧困にあえぐ問題が。メンバーには津田梅子の父親、中村正直。前島密も。東京の盲唖学校は設立運動が。次第にキリスト教的色彩から脱皮。外国人が多く参加するのでは学校設置の許可が得られないと判断。目的も教育の機能を意図。79年には校舎が完成して80年には開校。視覚障害者や聴覚障害者。民間の努力で学校が生み出されていく。公教育の枠組みからは排除。国民皆学。子供も重要な働き手であったから非現実的。就学率は改善せず。様々な方策を。民衆は督促に反発して学校の焼き討ちも。せいぜい4割程度。就学に関する法令を整備して就学義務を強化。義務教育から排除する子供についても明確に。86年には第一次小学校令。保護者の義務であると。一方で国家に対する義務という側面。改正を重ねる中で就学義務の猶予免除規定で障害のある子供の除外。80年代後半になると、アチコチの地域で運動が。聾唖学校の設置計画が。対応を迫られる。90年の第二次小学校令では各種学校として。しかし義務教育ではないという。長い時間をかけて義務教育の位置づけになるように運動。
小学校令の整備。小学校から排除。特殊教育と全く関わりが無かったわけではない。大勢の子供、様々な子供。授業についていけない子供などの一斉授業に対応できない子供。日本に限らずEuropaでもアメリカでも。勉強の苦手な子供や嫌いな子供も。学校でも何らかの対応が。特別な学級をEuropaやアメリカでも。最初は一斉授業についていけない子どもが。そのうちに目が見えにくい子供など枝分かれを。日本では?日清日露戦争を経て急速に就学率が向上。国民の方でも教育への要求が高まる。貧しい家庭の子供には働かなければならない子供も。一方、国定教科書。師範学校出身の教師が一斉指導を。授業についていけない子どもの問題。小学校に特別学級を。附属小学校に特別学級を設置するよう奨励する。幾つかの学校で。次第にエリート層を対象に、費用の問題もあり閉鎖されてしまう。太正時代。新教育運動など。適性に合わせた教育を。特殊学級の増加。次第に軽度の知的障害者も。知能検査の導入が。24年の時点で235校に上る。昭和期には減少。次第に軽度の知的障害者への対象に変化。重度の知的障害者には民間の施設が。石井亮一が滝野川学院を。初めは濃尾地震で親を失った女の子のために保護施設を。女の子の場合、人身売買の犠牲に。実際に保護してみると重度の知的障害と思われる子どもが。困っていたので自分で引き受ける。知的障害者の教育に関心を。しかし情報は得られない。96年にアメリカに。セガンの指導方法などを。セガン。知的障害教育の理論と方法を。どんなに重度でも意思を持つ存在と。系統的な教育的治療を。渡米したときにはセガンは無くなっていたが、妻から教えを受ける。知的障害児の施設は太正にかけて開設される。28年の八幡学園。一部の例外を除き、教育の場は社会事業として運営。重度の知的障害についても戦後しばらくは排除。聾唖学校と盲学校。06年にはろうあ教育大会が。400人あまりの参加。全国組織も。06年の大会。聾唖教育例を。分離や官立の学校を設置。義務教育の対象とするなど。19年には文部省の主催で大会が。文部大臣。就学義務の免除規定を見直し整備する意向があると。23年に学校令の制定。国に対して必要性を訴える努力の結晶。普通教育と職業教育。制度上の分離。都道府県への義務と。就学義務の実現は戦後に。昭和になり特殊教育も衰退を。関係者の努力などである程度の実現も。身体が弱い子供の教育の問題。国民の体位づくり。長期の休暇を利用して休暇集落。明治40年に小原頼が鎌倉で。欧米の実践に関心を。寺田祐吉。25名が参加し14日間で。成果が実証されるにつれ、日常的にしたほうが望ましいと。様々な名称で。17年の林間学校。身体が弱く伝染病にかかっていない子供。外気や消化の良い食べ物。教科の学習を。結核予防にも。小学校の中にも虚弱児に対する特殊学級も。
肢体不自由教育。1校だけだが肢体不自由児の学校も。明治30年代に整形外科学が。治療や職業教育の提案を。柏倉松蔵。子どもたちを救えない体操教育に疑問を。柏学園を。不具やカタワに代わり肢体不自由児と。公明学校。入学のために引っ越した家庭も。知的障害教育。41年の国民学校令で国民学校に。戦時中は崩壊の危機に。学徒動員。全体的には戦争の役に立たない存在と。人間の尊厳を。応召される。戦争により大きな犠牲を強いられる。
明治期から第2次世界大戦までは民間の努力が多かったが発展を遂げる。初期の特殊教育は多くの人の志から。偉人たち以外にもより良い教育を努力した無名の人も忘れるべきではない。すべてが失われた訳ではない。戦後において戦前から受け継いだものは?