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アンドラゴジーの理論的基盤と社会的意義 #放送大学講義録(成人の発達と学習第7回その7)

ーーーー講義録始めーーーー

 

アンドラゴジーの理論的前提

さて、アンドラゴジーの前提には、人には成長や発達を志向する側面があり、条件が整うと自発的な学習活動が促進される、という人間性心理学的な見方が置かれがちだと思われます。リンデマンやノールズの成人学習論のいずれもが、基本的に学習による人間の成長可能性に着目しています。アンドラゴジーをめぐる諸説は、人それぞれが成長と発達の可能性を持つとする**人間性心理学(humanistic psychology)**の理論的前提と親和的である、という理解も成り立つように思えますが、いかがでしょうか。

堀先生:そうですね。確かに、自己実現の欲求に伴う自発的学習志向を持つ人々こそが、アンドラゴジーの想定する成人学習者である、という言い方はできます。ただしそれは、現実のすべての成人を一様に記述するというより、**ノールズが提示した「成人学習者に関する仮定」**として理解するのがよいと思います。

また、このような考えには、自己実現の欲求を重視したマズロー(Maslow)や、人が自己の可能性を最大限に発揮しうるとするロジャーズ(Rogers)など、いわゆる人間性心理学の考え方が見て取れます。ノールズが人間性心理学、とりわけマズローやロジャーズの影響を受けたことは、研究史・概説でも指摘されています。
したがって、ノールズの自己概念(自己決定・自律)をめぐる仮説は、人間性心理学の学習観と親和的だ、という整理は可能だと思います。

自己実現概念の違い

ただし、ここで注意していただきたいのは、自己実現という言葉は、心理学の文脈によって含意がずいぶん異なることです。マズローの場合、欲求の階層の議論の中で、自己実現(self-actualization)を人間の可能性の充足として位置づけました。
一方でユング(Jung)は、個性化(individuation)の過程を「自己実現(self-realization)」とも言い換えうる、と述べる箇所があります。

ユングとマズローの自己実現の考え方の決定的な違いを簡単に言えば、ユングの個性化は、意識と無意識の関係や全体性(wholeness)に関わるプロセスとして語られやすいのに対して、マズローは人間の潜在能力の充足・成長動機といった方向で自己実現を扱う、という違いとして整理しうる、ということです。
したがって、ノールズのアンドラゴジーを自己実現という語で説明する際には、どの心理学的伝統の「自己実現」を念頭に置いているのかを区別して述べる必要があります。

すべての学習者に当てはまるのか

そうですか。いずれにしても、人間の成長や自己の完成といった点からアンドラゴジーについて考えると、すべての学習者が自己実現といった高次の欲求を持つとは限らず、すべての学習者が自発的であるとは限らないということに改めて気づかされます。

例えば、アンドラゴジーの仮説に対しては、主に白人男性、学歴があり、中流の背景を持った、いわゆる持てる人々を一般化しすぎているのではないかとの批判が、批判的・フェミニスト等の観点から整理されていますよね。

アンドラゴジーの社会的意義

堀先生:はい、その通りです。しかし、アンドラゴジーの概念が登場したことは、子どもとは異なる大人の学習というものに光を当てるものであった、ということも事実です。そしてそれは、成人学習をめぐる議論の中で、学習機会の設計や支援を考える枠組みを広げる契機にもなりました。

ノールズの『成人学習者』(The Adult Learner)という本の副題には「見過ごされた人たち」(A Neglected Species)と書かれています。つまり、大人はこれまで教育学の領域で見過ごされてきた、という問題提起を含むわけです。
そこにおきましては、新しいタイプの学習者像と学習支援の発想を、教育・研修の領域に導入したという点で、ノールズが与えた影響は大きかった、と言えるでしょう。

他方で、批判研究が指摘するように、成人の学習は個人の意欲だけで決まるものではなく、階層・文化・制度・資源配分などの条件にも制約されます。したがって、アンドラゴジーを実践に用いる際には、個別ニーズへの配慮だけでなく、学習参加を妨げる条件(経済的・制度的・文化的障壁)に目を向けることが重要だ、という論点が浮かび上がる、ということにもなります。 

おわりに

そうですね。確かに、ノールズの教育への貢献、教育学の貢献ということは非常に大きなものがあったと言えますね。
さて、お伺いしたいお話はつきませんが、時間となりました。今回は、堀先生、とても貴重なお話、ありがとうございました。

堀先生:こちらこそ、本当にどうもありがとうございました。