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『沈黙の春』からリオ地球サミットへ:環境問題の歴史と持続可能な発展の原点 #放送大学講義録(持続可能な社会と生活第3回その4)

ーーーー講義録始めーーーー

 

環境問題の歴史とリオ地球サミット
——『沈黙の春』から伝説のスピーチへ

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【レイチェル・カーソン『沈黙の春』——環境問題の原点】
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環境問題の歴史を振り返ると、現代の環境法思想や環境運動に大きな影響を与えた本として、1962年に出版されたレイチェル・カーソンの『沈黙の春(Silent Spring)』が挙げられます。米国ペンシルベニア州生まれの海洋生物学者であり、優れた自然作家でもあったカーソンは、この本で、DDTをはじめとする化学農薬の無分別な使用が、生態系や野生生物、そして人間社会に及ぼす危険性を訴えました。

『沈黙の春』という題名は、春になっても鳥たちのさえずりが聞こえない世界を思わせます。ただし、この本の冒頭に描かれる「鳥の声が消えた町」は、特定の一つの町で実際に起きた出来事をそのまま記録したものというより、各地で起きていた農薬被害の事例をもとに、読者に問題の深刻さを伝えるために構成された寓話的な導入です。カーソンは、農薬が害虫だけを都合よく殺すのではなく、土壌、水、昆虫、鳥、魚、家畜、人間の生活にまで広がり、食物連鎖の中で蓄積していくことを、科学的な資料をもとに、しかし一般の読者にも届く言葉で描きました。

この本は大きな反響を呼び、米国社会に強い衝撃を与えました。出版後まもなくベストセラーとなり、化学業界からの激しい批判も受けましたが、世論と政策の両方に大きな影響を及ぼしました。1963年には、ケネディ大統領の科学諮問委員会が農薬の乱用に関するカーソンの問題提起を相当程度支持する報告を行い、その後の米国の農薬規制や環境政策の流れにもつながっていきました。

『沈黙の春』は、環境保護への関心が高まる大きなきっかけを作った歴史的な著作です。1970年の米国環境保護庁(Environmental Protection Agency, EPA)の設立や、1972年の米国におけるDDTの農業利用禁止など、同書だけですべてを説明することはできませんが、現代環境運動の出発点の一つとして位置づけられることは間違いありません。

そして、1972年にストックホルムで開かれた「国連人間環境会議(United Nations Conference on the Human Environment)」は、国連が環境を主要な国際課題として扱った最初の世界会議でした。この会議は、同じく1972年に発表されたローマクラブの『成長の限界(The Limits to Growth)』とともに、その後の世界の環境政策に大きな影響を与えました。ストックホルム会議では、人間環境宣言と行動計画が採択され、環境問題が一国の国内問題ではなく、国際社会全体で考えるべき課題であることが明確に示されました。

その後、1982年にはナイロビでストックホルム会議から10年を振り返る国際会合が開かれ、1992年にはリオデジャネイロで地球サミットが開催されました。以降も、2002年のヨハネスブルグ・サミット、2012年のRio+20へと、環境と開発、そして持続可能な発展をめぐる国際的な議論は、節目ごとに積み重ねられていきます。したがって、「10年ごとにまったく同じ形式の世界会議が開かれた」というより、1972年以降、ほぼ10年単位の節目を意識しながら、国際社会が環境と開発の課題を継続的に議論してきた、と理解するのが正確です。

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【1992年リオ地球サミット——持続可能な発展の重要なマイルストーン】
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1992年には、ブラジルのリオデジャネイロで国連環境開発会議(United Nations Conference on Environment and Development, UNCED)、通称「地球サミット(Earth Summit)」が開催されました。この会議は、持続可能な発展にとって極めて重要なマイルストーンとなりました。1972年のストックホルム会議が「環境」を国際政治の中心課題に押し上げた会議だったとすれば、1992年のリオ地球サミットは、「環境」と「開発」を対立させるのではなく、両者を結びつけて考える必要性を世界に示した会議だったと言えます。

この会議では、大きな歴史的成果として、「環境と開発に関するリオ宣言(Rio Declaration on Environment and Development)」や、それを実行に移すための包括的な行動計画である「アジェンダ21(Agenda 21)」などの重要な文書が採択されました。アジェンダ21は法的拘束力を持つ条約ではありませんが、各国政府、自治体、企業、市民社会が持続可能な発展に取り組むうえで、長く参照されてきた行動計画です。

また、この地球サミットでは、「気候変動枠組条約(United Nations Framework Convention on Climate Change, UNFCCC)」と「生物多様性条約(Convention on Biological Diversity, CBD)」が署名のために開放されました。厳密に言えば、これらの条約はリオ会議の場で突然生まれたというより、会議に向けた交渉過程を経て合意され、リオで各国の署名に開かれたものです。しかし、リオ地球サミットが、気候変動対策と生物多様性保全を国際社会の中心課題として押し出したことは確かです。さらに、砂漠化対処条約につながる交渉の流れも、この時期の国際的議論の中から強まっていきました。

このように、リオ地球サミットは、持続可能な発展という理念を、国際社会の共通言語にしていくうえで大きな役割を果たしました。現在のSDGs、すなわちSustainable Development Goalsの時代においても、1992年のリオで確認された考え方は、決して過去のものではありません。環境保護、貧困削減、開発の権利、世代間の公平、参加、国際協力といった考え方は、今もなお、持続可能な社会を考えるうえでの土台になっています。

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【セヴァン・スズキの伝説のスピーチ】
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このリオ地球サミットで大きな話題となったのが、会場のRio Centroで行われた、カナダの12歳の少女、セヴァン・スズキさんのスピーチです。彼女はEnvironmental Children’s Organization、略してECOのメンバーとして登壇しました。Plenary Session、つまり本会議の場で各国政府代表者たちを前に、未来世代の立場から訴えたのです。

セヴァン・スズキさんは、次のような趣旨の言葉で語りかけました。

「私がここで話しているのは、これから生まれてくるすべての世代のためです。声を聞かれることのない、世界中の飢えた子どもたちのためです。そして、行く場所を失い、この地球上で死にゆく無数の動物たちのためです。」

そして環境問題と貧困問題への思いを述べ、「どう直せばよいのかわからないのなら、どうか壊し続けるのをやめてください」と、大人たちに強く訴えました。この言葉は、環境問題を専門家や政治家だけの問題としてではなく、未来を生きる子どもたちの問題として受け止めさせる力を持っていました。

セヴァン・スズキさんのスピーチが伝説のスピーチとして語り継がれるようになったのは、そのスピーチがとても堂々としていて、内容も率直で力強かったからです。しかし、それだけではありません。リオ地球サミットそのものが世界的に大きな注目を集め、持続可能な発展を国際社会の中心課題に押し上げる歴史的な場であったからこそ、そのスピーチは多くの人の記憶に残りました。

この会合の背景には、当時の国際情勢もあります。東西冷戦が終結し、世界的に軍事的緊張が緩和されつつありました。冷戦期には、安全保障や軍事対立が国際政治の大きな中心でしたが、1990年代初頭には、地球規模課題の解決に各国が協力して取り組むべきだという期待が高まっていました。もちろん、現実には南北格差、開発資金、技術移転、先進国と途上国の責任分担をめぐる対立もありました。それでも、環境と開発を結びつけ、地球規模で協力するという理念が力を持った時代であったことは確かです。

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【リオ宣言の27原則——持続可能な発展の基盤】
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リオ地球サミットの成果文書の1つである「環境と開発に関するリオ宣言」は、1972年のストックホルム人間環境宣言を発展させたものです。そこには、持続可能な発展に関する27の重要な原則が書かれています。

リオ宣言は、まず人間を持続可能な発展への関心の中心に置き、人々が自然と調和しながら健康で生産的な生活を送る権利を確認しています。同時に、各国には自国の資源を開発する主権的権利がある一方で、その活動によって他国や国境を越えた地域の環境に損害を与えてはならないという責任もあるとしています。これは、開発の権利と環境保護を結びつける重要な考え方です。

また、リオ宣言は、現在の世代だけでなく、将来世代の必要にも配慮することを求めています。貧困の根絶も、持続可能な発展の不可欠の条件として位置づけられています。環境問題は、豊かな国だけが自然を守ればよいという話ではありません。貧困、開発、資源利用、国際経済の不平等と深く結びついているからです。

さらに重要なのが、「共通だが差異ある責任(Common but Differentiated Responsibilities)」という考え方です。地球環境を守る責任はすべての国に共通しています。しかし、歴史的に大量の資源を使い、温室効果ガスを排出してきた先進国と、これから貧困削減や開発を進めなければならない途上国とでは、責任の重さや能力が同じではありません。この考え方は、気候変動交渉をはじめ、その後の国際環境政策に大きな影響を与えました。

リオ宣言には、持続可能な生産と消費、科学技術の共有、環境影響評価、予防的取組、汚染者負担の考え方、情報公開と市民参加、女性・若者・先住民や地域社会の参加、平和・開発・環境保護の不可分性なども盛り込まれています。特に予防的取組は、科学的な不確実性が残っている場合でも、深刻な環境被害のおそれがあるなら、対策を先送りしてはならないという考え方です。これは、気候変動や生物多様性の危機を考えるうえで、現在でも非常に重要です。

このリオ原則は、現在のSDGsの時代にも受け継がれています。もちろん、1992年の文書をそのまま読めば、今日の気候危機、生物多様性危機、プラスチック汚染、AIやデジタル技術と環境の関係など、現在の課題をすべて直接扱っているわけではありません。しかし、環境と開発を切り離さず、貧困、参加、公平、国際協力、将来世代への責任を一体として考える姿勢は、今なお多くの貴重な示唆を与えてくれます。