F-nameのブログ

はてなダイアリーから移行し、更に独自ドメイン化しました。

明治維新と天皇(日本政治思想史第6回)#放送大学講義録

日本にとり天皇がどのような役割を果たしていたのかは見ておかなければ。

 

blog.kaname-fujita.work

 

-----講義録始め-----

 

明治維新と天皇

明治維新の背景には、諸外国の船が日本に接触を試みる動きがありました。具体的には、1792年、1804年、1808年、1827年といった年代に異国の船が日本に接近。これに対して、日本は「異国船打払令」を発令し、外国船の接触を拒絶しました。

この時期、会沢正志斎を中心とする後期水戸学が台頭。彼らは西洋列強が神州(日本)を脅かそうとしていると捉え、キリスト教が日本に布教されると、日本が実質的な植民地になるとの懸念を抱きました。この背景から、天皇の祭祀、特に大嘗祭や新嘗祭といった収穫祭が重要視され、天皇が天照大神に捧げる形で行われました。これはキリスト教に対抗する意味合いも持ち、天皇の権威を強調するためのものでした。

明治天皇は1867年に即位し、東京で大嘗祭を行い、伊勢神宮に参拝。ここには八咫の鏡があり、天皇が天照大神の子孫であることを印象づけるためのものでした。この後、神宮への参拝が盛んになり、宮中祭祀を新たに作り出しました。例として、紀元節、春季皇霊祭、神武天皇祭などの祝祭日が制定されました。1888年には、賢所、皇霊殿、宮中三殿が確立されました。

しかし、万世一系のイデオロギーに現実が追いついていなかったことから、新たな神社として明治神宮や東郷神社、乃木神社などが建立されました。特に、軍人を祀る神社や戦死者を神として祀る東京招魂社、後の靖国神社は注目されます。靖国神社は、英霊としての合祀が行われ、1879人に改称されました。これは、陸海軍の直轄であり、他の神社の内務省ではなく、無条件で神になるという、これまでの神道には無かった新しい形態でした。

明治維新政府は、神道国教化を放棄し、天皇の権威を強調するための天照大神の祭祀を止めました。代わりに、天皇の全国巡幸が行われ、北海道から九州までの全土を巡りました。これにより、天皇を知らない地方の人々にも天皇の存在を知らしめることができました。

大正時代に入ると、政治家も天皇の巡幸に積極的になりました。しかし、巡幸では天皇は無言であり、儒教の理想や帝王学の影響を受け、言葉ではなく内面の徳を強調する形となりました。民権派は各地を演説して回りましたが、天皇だけが無言で巡幸を行いました。

明治3年には、天皇への直訴が一時的に認められましたが、すぐに禁止されました。その後、建白書を受理する機関が設けられ、民主化が進められました。儒教思想は完全に排除されることはなく、徳としての側面は継承されました。教育勅語においても、徳は深くあついものとされ、天皇が徳を発する源とされました。

1879年には憲法が発布され、帝国大学では天皇機関説が提唱されました。しかし、天皇への直訴が完全に無くなったわけではなく、田中正造らの動きや1927年、1928年の事件が社会的な反響を呼びました。

以上、明治維新と天皇に関する概要を述べました。この時期の日本は、西洋との接触や内政の変革を通じて、天皇を中心とした国家形成を進めていったのです。