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明治民法と家制度の成立と影響(人生100年時代の家族と法第1回)#放送大学講義録

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明治政府は、近代国家あるいは中央集権国家の樹立を目指し、当時の欧米諸国に倣った法制度を導入することにしました。そして、憲法、民法、刑法、商法、民事訴訟法、刑事訴訟法という、いわゆる六法を中心に法律の整備に着手しました。民法は1890年(明治23年)に一旦制定されましたが、その後に勃発した、いわゆる「法典論争」(あるいは「民法典論争」とも言います)を受けて修正されることになりました。そして、修正を経て、8年後の1898年(明治31年)に施行されました。以下では、この1898年に施行された民法を「明治民法」と呼ぶことにします。

明治民法の家族に関する制度は「家制度」と呼ばれ、この家制度は「戸主制度」と「家督相続制度」という2つの制度を基礎とするものでした。戸主とは、家長、つまり家の長のことです。この戸主と同じ戸籍に登録されている全員が、例えば一つの家族とみなされます。

戸主は家の長として、家族に対して絶大な権限を有していました。例えば、戸主の同意を得なければ、家族は基本的に婚姻することができませんでした。だからこそ、戸主である親が婚姻に反対し、そのために子供が駆け落ちするということが発生したのです。もちろん、現在では親が反対しても子供は自由に婚姻することができます。他方、戸主は家族の生活の面倒を見る義務、これを「扶養義務」と言いますが、扶養義務を課せられていました。つまり、戸主は明治民法によって強い権限を与えられると同時に、重い義務も負っていたのです。

次に、家督相続とは、江戸時代の武士階級の相続制度に、欧米から輸入された民法の要素を組み合わせたような制度でした。戸主の地位、これを「家」と言いますが、この地位は戸主の死亡や隠居などを理由に新しい戸主に相続されました。この新しい戸主になることができる人を「家督相続人」と呼びますが、この家督相続人になることができるのは、原則として長男でした。そして、長男は、戸主の地位である家と家の財産である家屋敷の両方を相続するものとされていました。

明治民法が制定されるまでは、庶民階級の相続は地域によって多種多様であったことが、先ほどの『全国民事慣例類集』などからも分かっています。例えば、男女の性別に関係なく、最初に生まれた子供が相続する「長子相続」の地域もあれば、末子、つまり一番最後に生まれた子供が相続する「末子相続」の地域も存在していたことが分かっています。つまり、明治民法は、地域ごとに異なる慣習や歴史をすべてリセットし、全国一律に民法という法律を強制したのです。

このようにして、各地域の実情や人々の意識に合致しない法律が全国一斉に実施されたことは、当時の社会に様々な混乱をもたらすことにもなりました。