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ナラトロジー(2) -焦点化と語りの人称(文学批評への招待第7回)

小説を読みたくなった。

 

焦点人物。内的焦点化。焦点人物が立ち会っていない出来事を語ることは出来ない。他の人から聞いたことは例外。脇に置く。焦点人物がただ一人に固定される語りは、小説家にとり想像以上に大きな制約。完全な内的焦点化は限られる。ロブクリエ、「嫉妬」。限界作品。50年代から60年代にかけて、Franceでは斬新な小説が書かれる。57年の「嫉妬」。物語世界の全ては唯一の人物の独白。人物。三人だけ。Aという女性、フランクという名の男性、その妻。妻は全く登場しない。Aとフランクの会話。心理描写というのを欠いている。内面について沈黙を守る。外的焦点化のモデルケース?カメラ・アイ。情景描写。視点が物語世界を自由に往来するのに慣れ過ぎている。連続性が断ち切られる。何故内的焦点化と断言できるのか?語り手が作中人物でなければ、内的焦点化とは言えない。語り手はどこにも出てこない。Aの夫であるという想像は出来るが。text上の根拠は別のところに。引き算。語り手は食器や椅子の数として執拗に示し続ける。外的焦点化と見えたものが、厳密な内的焦点化に反転する。逆説。登場人物の心理描写を排除し続けたものが、語り手そのものへと転化する。ブラインド、の意味も。遮るのも開放することもできる。覗くことも可能。見事なメタファ。一人称か三人称かという区別。文法的人称の差異。二人称による語り。あなたや君だけを語り手にする。異質物語的。より大きな一般性。人称代名詞論。一人称と二人称とはディスクール。三人称は歴史叙述。一人称と二人称は相補的なもの。独白ではなく内的な分割を前提とした対話。二人称の使用は別の存在を指示するとは限らない。
ビュトール「心変わり」。二人称主語を用いている。親しみと敬称。疑似一人称。主人公を常に二人称に。内的独白。君、という呼称。語り手自身の心理描写。二人称の効果。語り手による人称の選択。小説技法上の冒険。一人称小説や三人称小説の間に。「わたしたち」という複数形を用いる。実際には「わたし」に過ぎない?フロベール「ヴォバリー夫人」。自分の正体を明かしてくれない。綺麗サッパリと消える。冒頭部の「わたしたち」。一人称が複数。私を含みながらも、どこまで含めるのかは曖昧。メンバーを拡大した極点が、全知全能の語り手。矛盾は無い。大切なのは複数ではあるが一人称。内的焦点化の担い手になれる。一気に現場へ。読者は「わたしたち」として参加する。読者との目線の共有。物語情報の制限。全知全能の語り手として心の中に入り込む為に。
ナラトロジーが取り上げる問題のほんの一部。時間についての問題もある。

 

文学批評への招待 (放送大学教材)

文学批評への招待 (放送大学教材)

 

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